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城下町シェブルーは火竜領最大の街である。かつての王都を守る外壁はスティナ山脈から切り出した岩をそのまま組み上げた武骨な造りだが、戦時下には敵の侵入を阻む盾として十分役割を果たした。今は苔むして所々崩れたまま放置されている程度の遺物になったが、それでもこの土地の歴史と住む人の気風を象徴する名物であることに変わりはない。
街中は主に領内で採れた農作物や山麓での生活に必要な家畜、セルジャンから流通してくる織物などの売り買いの場で活気がある。反面、「上品」「洗練」とは縁遠いのは否めない。
今日もシェブルーの往来では敷物屋が山羊飼いに文句をつけ、干豆の量り売りでは多いの少ないのと言い合っている。
荷馬車が通るたびに巻き上がる土埃に混じって、喧騒は路地裏にも届く。レア──イヴェットはサリーナと共に水路のほとりにしゃがみ込んでいた。
「もう大丈夫。落ち着いたわ」
イヴェットは心配そうに覗き込んでいるサリーナに笑みを向けた。
「やっぱり……やっぱり帰りましょう! 今城へ知らせれば、お迎えを寄越してもらって日暮れまでには戻れるはずです!」
サリーナの説得にイヴェットは首を振る。
「帰れるところなんて、もうないの。私は一人でも行くわ」
「無茶です! このお体で──」
「だからよ」
イヴェットは腹部の膨らみを撫でた。体の中で温かく丸い命が日ごとに育っている。こうしている今も。
「火竜姫ではなかったと知れた時、私だけが処刑されるなら、その覚悟はできています。でも、この子には罪はない」
何としても救う。まだ動けるうちに。
「では、クロード様にご助力を仰いでは」
「いえ、本物が現れたとなっては、あちらにも私の存在は都合が悪いはず。ラヴァル家には頼れません」
「そんな──」
サリーナは言葉を切った。背後から近づいてくる声に気付いたからだ。
「おや、こんな田舎街には珍しいお嬢さん方だ」
振り返ると、武装こそしていないものの、十分に相手を威圧する荒くれた風体の男が二人、こちらに向かってくる。イヴェットは立ち上がって身構えた。サリーナに手を貸すと震える体でイヴェットの前に出る。
「こんなところに護衛も付けずにいるご身分ではなさそうだ。どこの名家のお嬢さんだい?」
水路を背に、男たちに距離を詰められる。散歩と言って出かける時、服装はかなり簡素な物を選んだ。それでも城下へ出れば、イヴェットもサリーナも町娘とは違う。埃除けを兼ねて顔を隠すように被った肩掛けも、季節柄目立つ。
サリーナの怯えが伝わってくる。イヴェットも、初めて対峙する物理的な危機に恐怖した。しかし、魔導士見習いとして軍事訓練を受けた経験のあるイヴェットが、心得のないサリーナの後ろで震えているわけにはいかない。イヴェットはイヴェットとしての人生の一歩を、今日踏み出したばかりなのだ。
魔法を使えば撃退は難しくないが、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。金銭で解決するなら──路銀が減るのは手痛いが──立ち去ってくれるならそれがいい、今は。
イヴェットは懐に隠した宝石をひとつ握りしめた。
「旅の途中で、今夜の宿を取りに行った連れを待っております。ご覧のとおりの身重ゆえ、往来の邪魔にならぬようここで休んでおりました」
顔は伏せるが目は肩掛けの隙間から相手に向ける。イヴェットの回答は男たちの期待どおりだったようで、二人は目配せして薄笑いを浮かべた。
「旅の人じゃあ知らねえのはしょうがねえ。ここは俺たちが牛耳ってるんでね、通行料、置いてってもらおうか」
がなり散らすのが常であろう野太い声に、サリーナが身をすくめる。イヴェットはサリーナの手を握った。
領内では最も栄えている城下町にまで、悪どい商売で食い繋いでいる人がいる。領民の暮らしはそれほど厳しいのか。
イヴェットは宝石を握った手を男たちの前に突き出した。開いた手のひらの上に、小指の爪ほどの赤い石が光る。研磨されているが装飾品には加工されていない裸石だ。ラヴァルから贈られたセルジャンの一級品だった。
「これでお見逃しください」
男の一人が太い指でつまみ上げ、陽にすかして覗き込む。
「どうだ?」
もう一人が聞くが、
「わからねえ」
彼は石をイヴェットの手に戻した。
「お嬢さんよ、俺たちじゃ換金するまでそいつの価値がわからねえ。あんたがほかに金目の物を持ってねえなら、お連れさんが戻ってくるまで待たせてもらうぜ」
居もしない連れの帰りを待たれても困る。イヴェットとサリーナ、二人で少しずつ持ち出した現金は領地を出るまで保たせたいが、渡してしまったほうが良いか。思案するイヴェットをサリーナが不安げに振り返る。
「おいくら?」
サリーナを隠すようにイヴェットが身を乗り出す。と、男たちは笑い出した。
「こりゃ、とんだ世間知らずのお姫様だ」
ひとしきり唾を飛ばした後、
「通行料ってのはなあ、有り金全部って相場が決まってんだよ!」
一人が大声で凄むと、相棒は懐からナイフを出してイヴェットに向けた。ただの脅しだとわかっていても背筋が凍る。魔力が勝手に手先に集中してくる。
「さっさと出しな! 痛い目に遭いてえか!」
刃先が近づいてくる。体が熱い。でも、だめ。
魔法で一瞬怯ませたくらいでは、今のイヴェットが走って逃げ切るのは難しい。腹部の丸みを両手で包み込む。ああでも、守らなければ。
ついにイヴェットの手は燃え上がった。
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