第6章 - 10 years later - 粉屋の二階

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 リオネルは一睡もできないまま朝を迎えた。国境の山脈に陣取る一団は帝国軍に間違いないとの情報で砦への派兵を段取ることにしたが、領主火竜公不在では如何に妊娠中とはいえ格好がつかない。号令はレア名義でまずは千、六日の距離を急がせる。  一方で大々的にレア探しはできなくなった。サリーナと二人、遠くまで行ける手段はないはずと期待して、城下に数名の聞き込み人員を密かに配置するにとどめた。収穫は、まだ、ない。  一つわかったことがあるとすれば、レアが姿を消した理由だ。  不審な陣営の調査や中央との連絡で情報が行き交う中、王都に火竜姫が現れたという話が聞こえてきた。夏至祭で華麗に火の鳥を舞わせて火事を鎮めたとかいう、俄には信じ難い噂である。  火竜姫なら隣にいた。王都に現れたのは偽物だ──昨日までのリオネルなら、迷わずそう答えただろう。しかし今、問い質そうにもレアはいない。自ら行方を消したのだとしたら、それが全てを物語っている。  所領を取り上げ火竜姫に与えるとしたのはアンブロワーズだ。ラビュタンは魔法の力と威光を血縁に取り込むのと引き換えに容認し、アンブロワーズへの忠誠を示した。  その肝心のレアが偽物では、送り込んできたアンブロワーズへの信頼は揺らぐ。小国とはいえラビュタンは王家。最後の王であるリオネルの父の耳に入れば、隠居先から乗り込んできて兵をセルジャンへ差し向ける。リオネルとて、有事でなければアンブロワーズに直接説明を請いたい気持ちだ。話を聞いた瞬間にレアがいないのは良かったかもしれない。いれば、取り乱す無様な自分を晒していたに違いなかった。  今はとにかく、怪しい陣営への対処だ。二千程度なら蹴散らすのは難しくない。砦にいるのは王政時代からこの地を守る精鋭たちだ。援軍到着までは十分持ち堪える。  ただ、一度退けるだけでは終わらないのはリオネルにもわかっていた。勝っても負けても、この戦いをきっかけに帝国がなだれ込んでくる。アンブロワーズと揉めている場合ではない。砦で時間を稼ぐうちに中央と連携しなければ……。  身支度を終え、朝の茶を部屋に運ばせる。朝の光を浴びながら茶を淹れるレアの笑顔がちらついた。彼女はレアではなかった。何を思いながら別人を演じていたのか。夫婦の愛は偽りだったのか。メイドの淹れた茶は味もせず喉を落ちていく。  ただの男だったら。詮無いと思っても考えずにはいられない。すべてを投げ出して今すぐ探しに行くのに。  リオネルが差し出した手を、戸惑いながらも握り返したあの時、レアの瞳はいつか来るこの日を見据えていたのだ。  リオネル個人ならいい。百歩譲って一貴族であれば、まだ。しかしラビュタンは王族だ。かつての国民の手前、アンブロワーズにしてやられたままというわけにいかない。兵力を割けない今、偽物の首を送りつけるくらいせねば、ラビュタン王のもとにこの辺境を守り抜いた誇り高き老兵世代は納得しないだろう。  無事であってほしい。だが、帰ってきた時は──。  リオネルはテーブルの上を腕で薙ぎ払った。茶器が砕け、冷めきった茶が飛び散る。物音に駆けつけたメイドは、茶器の破片を拾いながらリオネルの顔色を伺った。主人は、今までに見たことのないほど険しい目つきで、口元には薄い笑いを浮かべていた。
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