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──セルジャンに報せが届く七日前。
スティナの砦での戦いは帝国軍優勢だったが、シェブルーからの最初の千、一日おいて後続二千が到着する。すでに砦の応戦により二千から数を減らしていた帝国軍は勢いをなくし、防戦に転じた。
南寄りの潮風がスティナ山脈から吹きおろす北風に変わると雨が降る。この柔らかく包むような雨を半島では〝夏の精霊の涙〟と呼ぶ。だが戦場では移ろっていく季節に別れを惜しむ暇はない。
「完全に帝国を包囲しました!」
砦の見張り台にいたマリユスに報告に来たのは、まだ少年と言っていいくらいの若い見習い兵だ。勝利を確信してか、声は上擦っている。
「油断するな、よもやとなれば敵は捨て身になる。退路を完全に断たず穴を空けるように伝えよ」
「は……!」
老将の威厳に若者は表情を引き締めた。「退却した場合は追いますか?」
「現地の指揮に任せよう。我々は援護に回る。動ける者で小隊を組み、前線へ糧食や薬を運べるようにしておけ」
「はっ!」
若者が踵を返す。その背を見送って、老将は静かに息を吐き出した。
なんとか持ち堪えた。だがこれで山脈越えの奇襲二千を蹴散らせば、大陸から本隊が来る。他に方法がないとはいえ、まんまと敵の思う壺に嵌ってしまった。
改めて戦場に目を遣る。煙る雨の向こうには味方の三千が帝国──チチェク勢を追い詰めているはずだった。
シェブルーから援軍を率いてきた現将軍グザヴィエは、馬上でマリユスからの伝令を受け取って即、陣形を変形させた。実践経験豊富なマリユスは、リオネルと同世代のグザヴィエにしてみれば親や師のような存在である。助言には素直に従い勝ちを確定していく。
「これは帝国本隊ではない。退却するようなら追うな!」
雨の影響もあり火柱の数は減った。魔導士は持久戦に弱い。斃さなくても、休ませなければ魔法力が尽きる。無傷の援軍はそれを叶えた。敵が逃げるなら追う必要はない。それよりも、少しでも消耗を抑えて次に備えたほうがいい。
陣形は横に伸び、数の差を見せつける。じりじりと敵の前線が後退していった、その時だった。
騒然と、グザヴィエから見て右翼の隊列が乱れる。敵に面して並行に押していたはずの陣形が、見る間に折れ曲がって収縮した。視界を邪魔する雨の向こうには目を凝らせば、火球が矢の速さで降っている。
「何だ!? 何が起こっている!」
グザヴィエが問うとばらばらと声が返る。
「敵に増援が! 弓騎兵です!」
「数は!?」
「ざっと二千……」
言いかけた兵士が馬から落ちる。その背には燃える矢が突き立ち、兵士の体は炎に包まれた。
「ぐっ、あああ……!」
立ち上る火柱に、グザヴィエの馬が驚いて立ち上がる。それを宥めているところに、火矢が飛んでくる。
「く!」
盾で防げば甲高い音が響く。矢は金属製のようだ。高価な武器を惜しげもなく放ってくる。
──ついに帝国本隊のお出ましか? 降りしきる〝夏の精霊の涙〟は、半島を守護してはくれないのか。いずれにせよ一旦体勢を立て直す必要がある。グザヴィエは一時退却の指示を下した。
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