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翌日、雨は上がった。帝国側から申し入れられた休戦に応じたマリユスは、合流したグザヴィエと共に砦で使者を迎えることになった。
マリユスとグザヴィエはラビュタン流の使者への礼儀として武装を解き、略式だが礼服を纏う。一方で、柱の陰や衝立の裏には兵士を潜ませた。使者が刺客でないとは、まだ言い切れないからだ。
「夏の精霊が去ったと思うと、それだけで幾分、冷える気がするな」
「は……」
応対の間で下座からマリユスに話しかけられて、グザヴィエは恐縮した。
「退却は、良い判断だった」
「恐れ入ります」
頭を垂れる若者に、老将は笑みを向ける。
「今はそなたが上官だ。後は頼みましたぞ」
グザヴィエは頷いた。
程なくして扉が開いた。案内されて入ってきたのは、男が二人、女が二人──、
「レア様!」
グザヴィエは思わず声を発した。そこにいるのは、庶民の衣服に身を包んでいるが、火竜公レアに違いなかった。マリユスも驚きを隠せない様子で、目を見張っている。
シェブルーで侍女とともに消えたレアを捜しているのはグザヴィエも聞いていた。王都セルジャンに〝本物〟が現れたという噂も。
「……ご挨拶をさせていただいても?」
二人いる男のうち、やや年嵩の男が一歩、前に進んだ。グザヴィエは咳払いをして居住まいを正す。
「このお方はベルカント・チチェク・クラル──チチェク王家の生き残りにして正統の継承者、ベルカント王子であらせられます」
「王子!?」
突拍子もない単語に、グザヴィエはもはや体裁を繕うのさえ忘れた。チチェクが滅んだのは彼がまだ少年だった頃。他国の王子の顔など知る由もない。王子と呼ばれた男は装飾の少ない実戦向きの騎士服で、身なりから身分を判じるのは難しかった。精悍な顔立ちはにこりともせず、厳かな佇まいを見せている。
どう受け止めればよいものかと思案に暮れていると、
「なるほど、それで統制の取れたチチェク式操兵が実現したというわけですな」
横からマリユスが口を挟んだ。
「ではこの方は本当にチチェクの王子だと?」
グザヴィエは一人合点の老将に問う。
「少なくとも、帝国内にありながら十年の間、チチェクの遺志を守り抜いた指導者であることは間違いない」
断じるマリユスの表情は硬い。王子かどうかは測りかねているのだろう。直々に使者として訪れたその真意も、領主がここにいる理由も。
「そちらは?」
平静を取り戻して、グザヴィエは年嵩の男に誰何する。
「申し遅れました。私はセミフ・サヒン、チチェクでは近衛兵長を務めていた者です」
男は片膝を突いて名乗った。「帝国ではラウル・ファルカウと名乗り、一騎兵ウゴ・ファルカウに身をやつした殿下の兄を演じてまいりました」
言い終わると、若い男が右手の親指から指輪を抜いた。セミフがそれを受け取り、グザヴィエに恭しく差し出す。
「これはチチェク王位継承者の証です。アンブロワーズに敗れても、チチェクがまた花開くよう逃された種子」
グザヴィエは指輪を手に取った。大粒の美麗な石だけを見ても、確かにラビュタンに伝わる王家の証に匹敵する。しかし模造や盗品の可能性はある。
「失礼ながら、この場では何とも申し上げられない。あなた方は帝国ではないのか? 我が主火竜公がそこにいる経緯についてもお聞かせ願いたい」
指輪を返す。グザヴィエの反応は予想どおりだったのか、セミフに悪びれる様子はない。
「ラビュタン前王ならば、指輪の真贋を見極められましょう。話は少し長くなります。ご婦人方の分も、席をご用意いただければ」
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