92人が本棚に入れています
本棚に追加
動作する物音が聞こえるような距離ではない。にもかかわらず、男の姿はくっきりと捉えられた。それだけ体格がいいのだろう。上半身は裸で、筋肉が盛り上がった腕が繰り返し地面を掘る仕草をしていた。騎士の家系のクロードも平均的な男より大柄ではあったが、男は一回りは大きそうだ。
私に気づくふうもなく、男は作業を続けている。何かを埋めているようだ。何だろう……男が土をかけているものは。
犬だ、とわかったのは、私が動いたからだ。ここにいても身を隠せるものはない。なら、戦闘の可能性を考えて、高台の街道に対して垂直に進む。昨夜転げるように滑り降りた斜面を登って、奴を上から覗く格好になった。さっきより近づいてはいるが、十分な距離がある。風向きもいい。相手が飛び道具を使っても対処はできる。
移動の気配が伝わったのだろうか、男は手を止めてこちらを見た。だが、すぐにまた作業に戻った。男の足元にはまだいくつかの生き物……〝だった〟断片が転がっている。昨夜の炎の犠牲者、か。初めてではないのに、胸ぐらをを掴まれた心地になった。
今思えば、大火事の現場にいる人間がただの通りすがりのはずがない。魔法で自然が荒れると魔物が出やすいから旅人は避ける。今ここにいるのは「関係者」だ。そんなことにも思い至らないほど、私はまだ混乱の只中にあった。
「怪我をしているだろう」
突然声がした。顔を向ける素ぶりも見せないが、男だ。「血の匂いがする」
まさか、と思いながらも、私は身構えた。手の傷の血は止まっているが、川ですすいだとはいえ衣服には染みが残っている。風が運んだか。
無視すればよかったのにそうしなかったのは、私が自分の匂いを振り返った一瞬で、男に間合いを詰められていたからだ。物音に目を向ければ、男はすぐそこにいた。一歩で私の喉元に手が届きそう……嫌な距離だ。
近くで見るとかなりの大男だ。露出した上半身の筋肉が陰影を伴って、岩みたいだった。若者という感じではないが、オジさんまでいっていない。腰には毛皮を巻きつけ膝までは隠れているが、裸足。
「蛮族の戦士か」
平静を装って私は尋ねた。指先に魔力を溜める。撃てて一発、足止めする程度だ。
「蛮族を自称するやつはいない」
男は手をはたいて泥を落とした。灰混じりの埃が舞う。「戦士ではない。戦うのは苦手だ」
「では、何者だ?」
「死者を埋葬していた。そのままだと、魔物の餌食になるからな」
男は私の問いを無視して、その場に腰を下ろすと煙管を吹かし出した。摺付木を使っていたから、魔法使いではなさそうだ。
男が吐き出した煙が、川に向かって吹く風に散る。眼下に広がる無残な光景は、私が戦った痕だ。クロードさえ無事なら、大人しくさらわれてやっても良かった。でも、こうなった以上は確かめたい、自分が生きる意味を。
「怪我してるなら、これを使え」
男は腰巻の中から何かを取って寄越した。二つに割ったものを紐で閉じた木の実。「傷薬だ」
「……医者か?」
「医者は、どちらかというと客だ。俺は薬を作って売っている」
「持ち合わせはない」
本当は、旅の常として肌着にいくらか縫い付けてあるのだが。
「金か? 金は要らない。必要ないならこの先の村で売れ。半月くらいは食える」
種火を払って煙管をしまうと、男は私のほうに向き直った。
「……俺は反対したんだ」
ぼそり、つぶやく男の目が私を捉えていた。「正攻法じゃ束になったって敵いやしないと。なあ、火竜姫」
最初のコメントを投稿しよう!