第1章 - After the day - 謎の男

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 男との間に沈黙が流れる。風の音が、吹く先を変えたと知らせる。指先にちりちりと痺れに似た充填を感じながら、私は必死で自分を抑えた。 「人違いだ」  どれだけ見え透いていても、認めるわけにはいかない。〝火竜姫〟の一言で、男が襲撃に無関係でないことは、混沌とした私の頭にも稲妻のように閃いた。  否定すれば振る舞い方も決まる。魔法を使わずに、かつ男に後を追わせず、ここから去る方法を考えなければ。  一方で、隙があれば炎を放って逃げようと考えていた。一瞬で距離を詰めてくる男だ。体格差からしても肉弾戦の間合いでは勝ち目がない。それでも、怯ませて逃げる、その一点に集中すれば活路は開ける。隙を突くんだ。  張り詰めた空気を変えたのは、男だった。地べたにあぐらをかいて私を見上げる目から涙がこぼれた。拭おうともせず、隠そうともしないで、濡れた瞳を私に向けている。  見てはいけないものを見てしまった気がして、私は胸を押さえた。私が殺したのは仲間だったのだろう。私の仲間も死んだ。クロードも、一度は。私の存在が、大勢の人生を狂わせる。 「だが、俺はお前を責めない」  男は立ち上がった。「お前に興味はないし、追う義理もない」 「……人違いだ」  私は男から目をそらした。  男はあの後、残っていた亡骸をすべて埋めたのだろうか。埋めながら、私の所業がやはり許せなくなったのか。街道沿いに歩いて半日ほどの村で足止めを食っていると、兵士ふうの二人を伴ってやってきた。私を探していた。  軒下に立て掛けられた荷車を引き倒す。物音に驚いた住人が出てくる気配を背に、私は走った。目の前には牧草地と畑に挟まれたあぜ道が伸びる。日暮れが迫り、農夫たちは家畜を連れて引き上げた後だ。昨日晴れていれば、今日こんな時間でなければ、今頃は次の街に着いていたのに。  あんな図体で、戦うのが苦手なわけがない。初めて出会った時の身のこなしからすれば、すぐに追いつけるはずだ。農地に出ることを見越して伏兵でも潜ませているのか。はっとして見渡すが、柵で囲まれた草地と膝丈の穀類の畝が広がるばかり。相手は男ひとりと見て良さそうだ。兵士ふうの二人には街道への出口でも見張らせているのだろう。少し安心する。数が多いと小火では済まないだろうから。  裏路地の出口に視線を戻すと、男が私の倒した荷車を戻しながら出てきた。物音に集まってくる野次馬を追い払っている。捕縛するための縄や網、足を狙う飛び道具を用立ててきた様子はないが、姿が見えたらもう背は向けられない。私は男から目を離さずに後ずさった。  男はあぜ道を歩いてこちらに向かってくる。一歩進むたび、私が一歩下がるのに気づくと足を止めた。 「すまない。事情が変わった」  男は手を広げる。表情は暗い。死者を埋葬していた時と違って、ゆったりとした無地の布服をまとっている今は、野蛮な印象は消えて知的ですらある。でも、油断はもうしない。私は一握り火球を出した。 「人違いだ!」  叫び、火球を飛ばす。ひとつ、ふたつ……火球は次々と男の手刀で打ち消される。炎の弾幕に乗じて私は少しずつ近づいていく。あと三歩、二歩。あと一歩の距離で放った一球を男の眼前で炎壁に展開すると、その中へ飛び込んだ──脇に、クロードの短剣を構えて。  突き出した切っ先が炎を裂いて、男の腹部が見えた。ほとんど抵抗なく、だぶついた布が口を開ける。手応えはあった。だが刃は男の脇腹を滑って、私は前のめりになる。前足を突っ張って倒れかけた体を戻す。剣を引かなければ、と思ったが、遅かった。  男は私の両手首を片手で捕まえていた。捻られて剣を落とす。もう片方の手で首を押さえられた、次の瞬間には男の顔が目の前にあった。  鼻がぶつかる。口が塞がる。大量に流れ込んでくる汁。鼻に抜ける青い匂い。息苦しさにもがくうちに、私の意識は遠のいた。
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