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シェブルーを出て以来、イヴェットはずっと気丈に振る舞っている。スティナの砦まで連れて行かれた時も、村に戻ってきた今も。
笑顔を向けられるたび、サリーナの胸は痛んだ。市井に紛れて新しい人生をと思っていたのに、戦乱の中心に飛び込んだ形になった。
ただ、意外なほどに村人も帝国軍もイヴェットの体調を気遣った扱いをしてくれている。二人だけでは城下から出ることすら怪しかったのだから、今の状態は僥倖と言っていい。
井戸から汲んだ水にぼんやりと自分の顔を映して、サリーナはため息をついた。夕食の支度前の水汲みは自分から買って出た仕事だ。少しでもイヴェットの居心地がいいように、部屋や食事を世話してくれる村人を手伝っている。下女がやるような作業にも慣れた。イヴェットに比べれば、自分の境遇など取るに足らない。
でも、とサリーナは思う。この状況はいつまで続くのだろうか。ラビュタンから正式に召されたら、帝国は抵抗せずイヴェットを差し出すだろう。人質や交渉の切り札としての価値はないのだから。
そうなれば、イヴェットは火竜姫を騙った本人として処罰される。リオネルの温情があれば命は助かるかもしれないが、離縁され、汚名を着て生きていくことになるだろう。
「このままでいられたらいいのに……」
サリーナは思わずつぶやいた。
「ここにいたのか」
男の声に振り返るとウゴだった。「探した」
「ベルカント様──」
「ウゴでいい」
膝を曲げてお辞儀するサリーナに、ウゴは右手を挙げて指輪のないことを示した。
ウゴが近づいてくるのに気づいて、サリーナは咄嗟に顔を伏せた。先日の祈りを見て以来、目を合わせるのが憚られる。
井戸に落とした桶を引き揚げる滑車を回していると、後ろから腕が伸びてきて持ち手を奪う。綱がみるみる巻き取られて、なみなみと重たそうな桶が上がってきた。
「これに入れるのか?」
空の桶を指すウゴに頷いてみせると、彼はそれに汲んだ水を移す。
「あ、ありがとうございます……」
「あとは?」
「いえ、これ以上は」
とんでもない、と言おうとして、サリーナは身をすくめた。ウゴの目が真っ直ぐにこちらを見ている。サリーナの手を掬い上げる、行動の意味を悟って動転する。
ウゴは暫くサリーナの手を見つめていた。硬い指先でささくれたサリーナの指を撫でる。恥ずかしくなり、慌てて振り解こうとしたが、手のひらで包み直されて逃げ場はなくなった。
締め付けられたように息が詰まり、
「あ……」
困ります、その一声が、出ない。火照る顔を目一杯に背けて、吸える空気を探す。
「夜明けには発つ」
頭上から、ウゴの穏やかな囁き。「今夜が最後だ」
明日、ウゴはチチェクのベルカント王子となり、セルジャンへ向かって進軍する。アンブロワーズ王家と殺し合うのだ。
「月が沈んだら、俺の部屋で待っている」
耳元に言い残し、握っていた手を離すと、ウゴは水を満たした桶二つを持って立ち去った。
サリーナは井戸の縁にもたれかかるように脱力した。激しい鼓動が今更のように頭に響いた。
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