60人が本棚に入れています
本棚に追加
「あ、忘れてた。もう着いたって、シキにレインしないと」
全体的にとんでもないことを言いながら、在里が再びバッグの中を捜索し始める。探し当てた携帯を軽快に操作する姿を見て、ベテラン飼育員が猛獣に餌付けをする動物園のワンシーンを重ね合わせてしまった。
「シキさんとレインでやり取りできる人間が、この世に存在するとは思わなかった。ってかマジで来るのか、あのひと……」
「筒井だって、クーちゃんとレインしてるだろ? あのひとこそ、よっぽど神様みたいなものなのに」
「あいつのことは、AIか何かだと思ってるからな」という俺の台詞に若干食い気味で、ポケットからレインの着信音がひとつ、ふたつ、みっつ……よっつ。きっと抗議のスタンプ連打だろう。放置だ、放置。
「前も言ったと思うけど、そんなに怖がることないから。雰囲気で誤解されがちなだけで、本当は優しいひとなんだって」
「わかる、わかってる。その隠れた優しさを前面に出す相手が、お前やユキに限定されるってことも、セットで理解してる」
「んー。腑に落ちないけど、現状ではそういう認識になっちゃうか。まあ、時間をかけてゆっくりと知ってもらおう。試しに、今日はシキの正面に座ってみて――」
「ぜっ、たい、やだ」そんな蛇に睨まれた蛙のような状態で、ゲンさんの絶品料理をいただきたくはない。即座に拒絶する俺を見て、在里が声を上げて笑った。
シキさんへの印象は、あの一件で確かに変わった。家族想いの、厳しくも優しいひと。けれどやっぱりどうしても、狐守の視点で見てしまう。天狐への驚異のほうが勝ってしまう。
いつか、筒井数としてシキさんを見ることができれば、在里の言っていることも本当の意味で理解ができるんだろうか。いやでも、あの陰気で根暗で無口で無愛想で協調性が皆無でいっつも引きこもっているようなひとのことを、どうやって――ん?
「あっ」
「筒井?」
「……わかった」
不思議そうに首を傾げながら見上げてくる在里から、あえて視線を外して、俺は確認するように呟く。
「お前が、ヤイバーブラックを好きな理由」
天使が通り過ぎた、と。唐突に訪れる静寂のことを、こう表現することもあるらしい。
厨房の中にいる三人のざわめきが、急にはっきりと聞こえ出す。ユキの弾むような声。ゲンさんの落ち着いた声。ノルさんは、相変わらずうるさい。
「……ああ、うん」
沈黙を破るには、あまりにも心許ない小さな呟き。在里にしては歯切れの悪い言葉が珍しくて、自然に目線が向いてしまう。
「俺も――いま、わかった」
俯いて双眸を伏せる在里の頬を、窓から差し込む夕日の朱がほんのりと染める。初めて見る表情の不意打ちに、ただ固まるというリアクションしかとれない。そんな俺を置き去りにして、在里が勢いよく立ち上がった。「シキを迎えに行ってくる」
「おかあさん、ユキも! ユキも!」
「あー、行くな行くな」在里の異変を目敏く察知して風のようにキッチンから出てきたユキを、俺は後ろから迅速に捕獲した。
「お前はステイ。ほら、デートは二人でするもんだろ?」
「おかあさんとおとうさん、デートするの?」きょとんと俺を見上げたユキが、次の瞬間には桜の開花のように破顔する。「うん、そうだねっ」
いってらっしゃい! と、急転直下の勢いで態度を変えて在里を送り出したユキの頭を、手持ち無沙汰な俺は何となく撫でてやる。しばらくして、嬉しそうに体を揺らしていたユキの動きが、ぴたりと止まった。
「ねえ、スーちゃん」
「ん?」
楽しい悪戯を思いついた子どものように目を輝かせて、ユキが片手をそっと口元に添える。いわゆる「内緒話はじめます」のポーズだ。意図を察して軽く膝を曲げた俺の耳に、笑いを含んだ声が届く。
「またこんど、デートしようね」
デートとは、二人ででかけること。ユキにはそうとしか教えていない。
だから、それ以上の意味があるはずもなかった。ユキの紅潮した頬にも、恥ずかしそうな笑顔にだって。
なので、俺もいつも通りに答えることにする。「気が向いたらな」と。頭が熱いような気がするのは、きっと夏の強い西日のせいだ。
目の下のくまが僅かに薄くなった店長が、最愛の妻と隣り合って久しぶりに店の暖簾をくぐるまで――あと、ほんの少し。
従業員が全員キツネの不思議な古民家カフェ狐し庵は、今日も賑やかになりそうだ。
最初のコメントを投稿しよう!