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半分寝ているユキの手を引きながら、ようやく倉敷川を臨むメインストリートまでやってきた。
昼間は観光客を乗せて大活躍している川舟の姿はなく、柳並木の影と街灯の淡い光が水面で静かに揺れている。初夏とは思えないほど涼しい風が、どこかの店先の香ばしい匂いを運んでくるが、既に極上の料理で存分に胃袋を満たしている俺に、その誘いは通じない。
ゲンさんが用意してくれたまかないは、今日も文句のつけようがなかった。この為にバイトを続けているといっても過言ではないかもしれない。
全員で欠片も残さず食べ尽くし、食後のお茶とお菓子をまったり楽しんでいたが、そこで再びユキを目がけて眠気が襲いかかってきた。湯呑みを持ったまま、うつらうつらと船を漕ぐ様子を見かねたゲンさんに「お嬢を旅館まで送っていってもらえやすか」と頼まれ、今に至る。
どうせ帰り道でもあるので、断る理由が見つからない。そもそも、いつものことでもある。古民家カフェ狐し庵のキツネたちは、もれなく旅館こしあんに住んでいるが、ゲンさんとノルさんは店の片付けが残っているため、少しだけ帰りが遅くなる。そのため、ユキを送り届ける役目は、だいたい俺が請け負っていた。もはや、バイトの仕事のひとつともいえる。
「ユキ、起きてるか」
「うん、おきてる……おきてるよ……」
「ユキ、寝てるか」
「……うん、ユキ、ちゃんとねてるよぉ」
ちゃんと寝てるらしい。なるほど、今日はこの辺りが限界のようだ。
狐し庵のある本町通りから、倉敷川に架かる今橋の袂まで。なんてことはない距離だが、もはやほとんど夢の中にいる今のユキの歩数として換算すると、その頑張りの程が窺える。自然と、俺はその場にしゃがみ込んだ。
「ほら」
「あい」
ユキも慣れたもので、俺の意図をすぐに理解して背中に覆い被さってきた。温かくて柔らかい重みが、しっかり乗っていることを確認してから、よいしょと気合いを入れて立ち上がる。
「落ちるなよ。寝ててもいいから、ちゃんと掴まっとけ」
「……はーい。もう、おかわりはいりませぇん……」
「遠慮すんな、もらっておけ」
控えめな寝言に思わず笑ってしまってから、ユキの手を引いていたときと変わらないペースで歩く。このまましばらく川沿いに進めば、旅館こしあんは目の前だ。
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