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さっきから一部始終を黙って見守っている気狐に、マイペースでフリーダムなオコジョの姿はない。いつもの色を取り戻した瞳が、ただただ静かに俺を見つめている。
気狐は、狐守の裡から生まれる。
狐守の一部であり、魂であり、心である。
そんなフレーズを、幼いころから聞かされ続けていた俺は、思わず小さく吹き出した。
「怖いのかよ、キューちゃん」
気狐は答えない。
そうか。怖いのか、俺は。
「在里を助けられなかったら、どうしようって思ってんだろ」
自分の手が震えていることに、ようやく気づいた。武者震いだ、なんて格好つけたことも言えない。――俺は、怖い。
「勝手だよな。今までだって狐憑とは何度も対峙してきた。なのに、一度だって怖いと思ったことはない」
こんなのは、ただの独り言だ。だからこそ、意味があるような気もした。
「それは相手が、どうでもいい他人だったから。俺とは縁もゆかりもない奴が、勝手に狐憑になろうが、侵食が進んだ挙げ句、勝手に人間をやめてしまおうが、俺には何の関係もないから」
まるで懺悔か何かのようだが、俺は別に自分が間違ってるとは思わない。いたって普通の、当たり前のことだ。名前も知らない初対面の人間の不運を、あたかも身内の不幸のように受け止めていたら、生きていくのがつらすぎる。そういうことは、在里やユキみたいな、心の強いお人好しに任せればいい。
「狐憑は狐守にしか落とせない。だからといって、俺が特別に何かをする必要があったわけじゃない。キツネたちがお膳立てを済ませてくれた舞台に、ひとり遅れて悠々と上がり、ただ立ち尽くしているだけの狐憑に触る。そんな、簡単すぎる仕事だ。俺は特別な鍛練も、特別な決意も、したことがない」
気狐は、まだ動かない。
「それが――怖いんだよな」
狐守になって初めて、後悔というものをした。
もっと深刻に考えていたら。もっと真剣に向き合っていたら。
少なくとも今、こんな風に無様に震えてなんていなかっただろう。
「在里を助けられなかったら、全部終わる」
水面に映った光景が、波紋の広がりで呆気なく歪むように。在里という一滴の雫が落ちるだけで、間違いなく周囲の全てが変わってしまう。
「狐守なんて続けられない。キツネたちに……ユキに、合わせる顔がない」
こんな役目は、最初からいらなかったはずなのに。
その枷から解き放たれた自由な未来を想像して、ほんの少しの寂しさを感じてしまった自分が、おかしかった。
「俺が狐守の家系に生まれたことは、やっぱり間違いだと思う。覚悟だとか信念だとか、そんな大層なものは、この期に及んでもやっぱりわからない」
だけど。
「だけど、在里は――俺たちにしか助けられない」
その事実だけで、今はいい。
「怖いし、面倒だし、マジでなんで俺なんだとは一生思うけどな。俺とお前だからできることがあるんなら、それはもうやるしかねぇんだよ」
気狐に向けて差し出した掌は、まだ震えていた。
けれど、それを見るキツネの黒い瞳に、揺らぎはない。
「とっとと行くぞ、相棒!」
「きゅ!」
いつもの鳴き声が、まるで鬨の声のようだ。その短い脚からは想像もできない跳躍力で俺の掌に飛び乗り、更に肩へ飛び移ってきたキューちゃんと、軽く目を合わせる。
もう、言葉は必要なかった。
――水筒も、置いていく。
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