母親が間違えて買ってきたんだ

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「ゲンさん!」  仕事着の作務衣姿とは、また受けるイメージが全然違う。オフスタイルと呼ぶにはクラシックが過ぎる格好をした狐し庵の厨房担当と、ここで会えるとは思わなかった。出掛けたとユキから聞いていたが、まさか先回りをしているとは。 「お待ちしてやした」  言葉どおり、ずっと俺たちがここに来るのを待っていたのだろう。  何のために? ――決まってるだろ。在里を、救うためだ。 「(あね)さんなら、です」    。そう言いながら、何もないはずの中空を、こんと裏拳で叩く。触れた場所から虹色の光が波のように揺らめくのを見て、そこに結界(けっかい)が張ってあることにようやく気付いた。  一見するだけでは、ゲンさんの後ろには誰もいない静かな空間が広がっているとしか認識できない。けれど、例えるならあの……西洋レストランでよく見かける、料理の保温のために被せる金属製の丸い蓋――確かクローシュとかいったか。あんな形状をした、めちゃくちゃ特大で、ついでに透明になったやつが、公園広場全体を覆っている。  俺たちの間では、結界と呼ばれているそれを張る目的は、ひとつ。  外からは、いつもの光景としか映らない、その中で。  何も知らない一般人を巻き込む懸念がない、その中で。  ――キツネと、狐憑と、ついでに狐守が。思う存分、はっちゃけるためだ。  そして、。シキさんを旦那、ユキをお嬢と呼ぶゲンさんが、在里に対して姐さんという呼称を使うということは。 「……やっぱり、全部知ってたんですね」 「ずっと、陰ながら見守っていやした。当然、姐さんの周りを最近になって野狐がうろついていることも、あたしは知っていた」  それなら、なぜ放っておいたんだ。ゲンさんなら、こうなる前に何とかできたはずだ。  俺のそんな当たり前すぎる疑問は、ゲンさんも想定済みだろう。けれど、弁解も説明も、彼は口にしない。 「これは、あたしの失態です」  それだけを言って、帽子を押さえる。見ようによっては、ユキに向けた謝罪のようだった。 「じかんがないの、ゲンさん。ユキは、おかあさんをたすけたい」 「勿論。あたしも同じ気持ちですよ」  ゲンさんから、はっきり言葉として在里救済の意志を確認できたことに、ホッとしている自分がいた。ゲンさんを疑う訳じゃない。けれど、何かが腑に落ちない。だが、今は。 「中に、入ります」  こんな所で、自分のもやもやを呑気に解消している時間などない。ユキの隣に並び立ち、サングラスが邪魔をして全く見えないゲンさんの目を、探るようにじっと見据える。 「危険ですぜ。それ相応の覚悟はありやすか……などと聞くのは、それこそ時間の無駄でしたね」  ふ、とゲンさんの口元が緩む。微動だにしない俺とユキの後ろから「二人ともどこッスか~! 待ってくださいッス~!」というノルさんののんびりした声だけが、一足早く追いついてきた。 「ゲンさんは……」 「あたしも入りやす。今回は、そちらのほうがいい」  結界を張った本人は外側にいたほうが、結界自体の強度が安定する。けれど、それよりもゲンさん自身に傍にいてもらったほうが望ましい俺は、その答えに安堵の息を吐いた。 「じゃあ、行きます。……ユキも、いいな?」 「だいじょうぶ」 「あ~、よかった!! やっと追いついたッス! あれ、ゲンさんが何でここにいるんスか? 三人とも真面目な顔で横並びになっちゃって、どうし……あれ、結界? ひょっとして中に入るッス? これから? 今すぐ? あ、待ってくださいッス! 俺っちも行くッスよ~!!」 「え、うわっ」 「きゅ!」  ノルさんのゆるゆるな声と、ノルさん自身のタックルを背後からどーんと受けて、俺たち四人と一匹は、ひとかたまりになって結界の中へなだれ込んだ。  シャボン玉を全身で突き破ったような感覚は、一瞬で通り過ぎていく。まるでコントのような突入のせいで、うっかり緩んでしまったメンタルの立て直しを図る俺を歓迎してくれたのは――恐ろしいまでの、暴風だった。
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