母親が間違えて買ってきたんだ

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「かぜぇええええ! え、風すっごいんスけど、なんなんスかこれぇええ!!」  ノルさんの叫びどおり、結界の中は、めちゃくちゃな風が吹き荒れていた。電話を受けた時点で、嵐のような光景が広がっているのだろうと予想はしていたが、目の当たりにした現実は、そんな想像を遙かに超えている。  今にも身体ごと持っていかれそうな風圧に耐えながら、俺よりも軽いユキの肩を抱いて必死に踏ん張る。キューちゃんが飛ばされていないか、ふと心配になったが、風の音の合間から鳴き声らしきものが僅かに聞こえてくるので、とりあえずよしとした。 「このっ、かぜっ、は……!」 「ええ、野狐の能力です。元々の力が強いのか、浸食が進んでいるのか、宿主の適性が高いのか……おそらく、その全てでしょう。野狐および狐憑としてはイレギュラーな存在だということを、まずは頭に入れておいてくだせぇ」  無駄にいい男の無駄にいい声は、こんな大風の真っ只中にいても耳によく通るのだということを、俺は学ぶ。  イレギュラー。確かにそうだ。今までにも風を使う狐憑に接触したことはあったが、あんなものは扇風機の弱か、うちわで軽く仰ぐ程度の強さでしかなかったのだと思い知る。  呼吸さえ難しいほどの暴風に耐え続けながら、とにかく瞼の一点のみに意識を集中させる。なんとか目を開こうと試み続けた結果、視界の奥で不自然な白を見つけることができた。 「在里……っ!」 「おかあさん!」  それは、ジャージの白だった。距離は少し離れているが、間違いなく在里であると確信できる人影が、そこにいる。この台風と呼んでもいいほどの状況で、まさしく台風の目にあたる場所なのだろう。俺たちがぐしゃぐしゃになっているのとは対照的に、在里は何者にも脅かされることなく平然と佇んでいる。  強風の中でも、俺とユキの叫びが届いたのか。やがて、俯けていた顔をゆっくりとこちらに向けた。  ――ぞっと、背筋が凍る。  恐ろしい形相をしていたわけでも、射殺すように睨まれたわけでもない。ただ、表情がない。それだけのことが、無性に恐ろしい。  いつも笑っている在里とのギャップが、きつい。現実に、打ちのめされる。思わず、ユキを抱く腕に力が込もった。 「手短に説明しやす。野狐の勝ち筋は、三つ。結界を壊して、外へ逃亡すること。狐守を戦闘不能にすること。この場であたしらを足止めすること」  その全ての道筋が帰結するところは、すべからく宿主との同化。とどのつまり、全部が全部、時間稼ぎだ。 「今は、どういう状況なんですか? この風、さっきから随分と規則正しく吹いてるのが気になってるんですけど……!」  そう。自然の変則的な風とは違い、常に一定方向から一定方向へ――俺の立ち位置からだと、正面から後方へと流れ続けている。何らかの目的があるとしか思えない。 「どうやら野狐の最優先事項は、結界の破壊のようです。円心状に風の波状攻撃を行って、少しずつダメージを与えている最中ですね。あたしの結界は、一点集中攻撃には強いですが、同時範囲攻撃には少し脆いということがバレてるようで……まあ、でも」  視界の隅で、黒い皮手袋に包まれたゲンさんの指が、生き物か何かのようにしなやかに蠢く。自分でも貧困すぎる例えだとは思うが、握力を鍛えるためにボールを握っているときって、ちょうどこんな感じになるよなと呑気に眺めてしまった。 「野狐風情に壊されるような結界を張ったことは、ただの一度もありやせんので」  どうぞご安心を、と声を一層低くして笑うゲンさんを見て、思わず背筋がぴんと伸びる。そういえばこのひとは、意外にも負けず嫌いだった。
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