母親が間違えて買ってきたんだ

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 さっきまでの立ち位置と全く変わらない場所に、在里はいた。ほっと安堵の息を漏らした俺とユキが見つめる先で、その身体が初めてアクションを起こす。  ゆっくりと、ゆっくりと、右腕が持ち上がっていく。何をするつもりなのかと俺は反射的に身構えるが、風は一向に止んだままだ。やがて、くるりと返した手の甲をまじまじと見つめたかと思うと、今度は右肩の辺りに視線を向け、更に左側の腰へと移動する。  おそらく、怪我がないか確認しているのだろう。それ自体は、ごく普通にみられる行為だ。折角手に入れた肉体を損傷するのは、狐憑としても支障を来す。――だが。 「……!」  在里が、狐憑が、笑った。  ひどく嬉しそうに。ひどく愛おしげに。  そのまま、ふわりと掲げた両腕を、緩やかに胸の前で交差する――いや、抱き締めているのだ。まるで、そこに見えない我が子がいるかのように。否、在里自身を、両の翼で包むかのように。 「……ゲンさん」 「はい」 「あんなに宿主を大事にする狐憑を、見たことがありますか?」 「いいえ」 「なら、多分――、なんですね」 「……スーちゃん?」  合点がいった俺は、ユキから離れて一歩を踏み出した。ようやく動ける。やっと前に進める。 「スーちゃん、まって。ユキもいっしょに――」 「ユキは、そこにいてくれ」  追いすがろうとするユキを振り向くことなく、俺は制止をかけた。母と子を、こんな形で再会させたくはない。これ以上、ユキを傷つけたくない。 「頼む」 「……きをつけてね」  そんな俺の意図を汲んでくれたのだろう。心配そうではあるが、確かに送り出してくれる声にひとつ頷き、俺は再び歩を進めた。まっすぐ、在里に向かって。 「おい、野狐」  風のない空間というのは、こんなに歩きやすいものなのか。こんなに話しやすいものなのか。  静かな公園に響く俺の声は、張り上げずとも野狐に届いた。ゆるりと上げられた顔に、先程までの聖母の表情はない。近付いてくる俺を見ても、特に何もしてくる様子はない。  例え規格外であろうと、所詮は野狐だ。天狐のシキさんのように無尽蔵な力がある訳ではない。先程のノルさんの攻撃を防ぐために、キャパシティの限界まで消費したのだろう。いい仕事をしてくれたと、今は力尽きて地面にへたり込んでいるホール担当に向かって、心の中で感謝しておく。 「お前、在里が好きなんだな」  ずっと、何かがおかしいと思っていた。それが、ようやくわかった。  悪意をもって宿主を害し、支配し、征服しようとする野狐とは、根本的に、決定的に違う。 「高飛びは、頑張ってる在里を飛ばしてやりたかったからだろ。先輩と揉めて困ってた在里を、助けてやりたかったんだよな。きのう、狐守の俺やキューちゃんが在里に近付いたときは焦っただろう。気づかれるかもしれないって」  そう考えると、辻褄が合う。  あのおかしな現象はすべて、在里を助け、守り、その側に、ずっといるため――。 「さっきから全く俺たちを攻撃してこないことにも、在里が関係してるんだろ。そいつの性格から考えると……そうだな、先輩が怪我したことに責任を感じて部活を休んでるような奴だ。どうせ、めちゃくちゃ落ち込んでたんだろ。そのとき、お前は理解した。在里の周りの人間を傷つけると、在里が悲しむ。だから、誰も傷つけないようにしようって」  ごうっと、さっきまでの暴風に比べれば、そよ風レベルの風があおってくる。野狐の胸の裡を知ってしまえば、何も恐れることはない。  きのうの風だって、何も痛くなかった、クッションで、ぽんっと軽く弾かれた程度だった。 「俺を切り刻みたくてもできないんだよなぁ? なら吹っ飛ばすか? でもなぁ、俺は脆弱な万年帰宅部だからなぁ。うっかり転んだだけで大怪我しかねないからなぁ。そうなったら、やっぱり在里はえっらい悲しむって、お前はもう学習してるはずだよなぁ?」 「スーくん、いまだかつてないほど生き生きしてるッス!」 「完全に悪役ですねぇ」 「外野うるさいです」  じりじりと俺が歩を進める度に、同じ距離分、在里が後退していく。焦りがはっきりと顔に出ているのが、こんな状況だというのにおもしろい。いや、こんな状況でもなければ見られないんだから、堪能したって別にいいだろ。  ――後で思う存分、からかってやるためにも。
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