母親が間違えて買ってきたんだ

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「さあて、どうする?」  それは野狐への挑発であると同時に、自分自身への鼓舞でもあった。間をおかず、そのまま勝負に出る。勢いをつけて一気に駆け出す俺を見て、在里の顔に、また知らない種類の表情が浮かんだ。  狐憑は、攻撃も防御もできない。そもそも、それだけの力がもう残っていない。奴に残された手段は、ただひとつ。 「そうだよな、逃げるよなっ!」  とんと、軽いバックステップ。何の予備動作もない無造作な跳躍で飛べる距離など、微々たるものだ。人間なら。  狐憑は風を使って浮力を増した。僅かな砂煙を巻き上げながら、普通じゃない速さで、普通じゃない高さまで跳ぶ。  空に逃げれば、俺は追えない。  狐守の接触さえ免れれば、野狐が勝つ。  ――だが。 「狐守は、のことを差してる訳じゃねぇぞ」  俺の言葉に目を見開いた在里の、後ろ。まさしく、その瞬間。  夜空に輝く生まれ立ての星のように、青い炎をまとったオコジョのようなキツネが、流れ星の如く突っ込んできた。  そう。気狐は、狐守の一部。  狐憑に触れるのは、。 「よし……!」  完全に不意をついた。注意をノルさんに引きつけている間に、キューちゃんを野狐の背後に移動させた判断が、功を奏した。  体当たりという、ひどく原始的で地味な攻撃手段ではあるが、決まれば確実に野狐を落とせる。例外は――ない。  けれど。 「きゅ? きゅー!」 「……は?」  このタイミングで絶対に上がるはずのない間抜けな声が、狐憑の後ろから聞こえてきた。  そして、俺の想定通りに野狐が抜けたのなら、そのまま重力に従って落ちてくるだろう在里の身体は、依然として宙に浮いたままだ。  ――この二つが意味する、結論。 「っ!?」  ざあっと、爪先まで血の気が引いた。心臓が、ばくばくと音を立てて騒ぎ出す。  まさか、失敗したのか? なぜだ? キューちゃんは?  俺のそんな動揺に気付いたのか、狐憑が答えを見せつけるようにゆっくりと降下していく。やがて、俺からは死角になっていたキューちゃんの様子が、はっきりと視界に入った。 「キュー……!」  白い霧にすっぽりと身体を覆われ、身動きがとれずにもがいている気狐の姿が、そこにあった。  怪我をしている様子はない。ただ、動けないでいるだけだ。まるで蜘蛛の糸に絡め取られた虫のように、中空に貼り付けられている。 「っ、おいおい聞いてねぇぞ……! ここに来て新技とか――!?」  突然、足下に生温さを感じて背筋が震える。  視線を一気に地面へ落とした先で見たものは、さっきまで空で見ていたものと、全く同じ。 「しま……っ」 「うひゃー! なんスか、コレ!!」  いつの間にか、濃霧のようなものに両足を包み込まれていた。風から派生した能力なのだろうが、一体どういう原理なのか。足ががっちりと接着されていて、全く動かせない。  感触としては、真綿に近い。あまりにも優しすぎる拘束だ。俺たちを傷つけるつもりは、とことんないのだろう。ちらりと上がったノルさんの悲鳴を思い出して慌てて顔を向ければ、俺と同じように三人のキツネも霧に捕らわれている。 「……くっそ」  今まで隠していたのか。それとも、たった今、編み出したのか。俺たちに危害を加えることなく目的を遂行する手段を、この僅かな時間で。 「お前も必死ってことかよ……!」  狐憑が、わらった。自分の勝利を、確信した。  目と鼻の先にいるのに。  あと十歩の距離もないのに。  足が、動かない。  思いつく手が、ない。  時間が、ない。  ――――ここまでか。 「おかあさん!」
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