母親が間違えて買ってきたんだ

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 雷に打たれたかのように、身体がびくんと跳ねた。  ユキの、声だ。ユキが、呼んでいる。ユキが、叫んでいる。 「おかあさん! ユキのこえ、きこえる!?」  小さく細い身体の殆どを、霧に覆われながらも。  あらん限りの声を振り絞って、血を吐くように。 「ユキ、おかあさんといっしょにいられなくてもいいとおもってた! いっしょじゃなくても、おかあさんがいきててくれればそれでいいって!」  地面に転がるような形で縫い付けられているのに、それでもあがき続けながら、ノルさんがユキをじっと見上げている。  拘束されながらも涼しい顔でユキの左隣に立つゲンさんの目元は相変わらず見えないが、その視線はまっすぐ在里に向けられていた。  「でも、やだっ! こんなのはやだよ!」  子どもが嫌々をするように、首を大きく何度も横に振りながら、ユキが声を張り上げる。母親に関しての、これがユキの初めてのわがままかもしれなかった。  我が侭に。――自分の心のままに。  こんな極限の状況に置かれなければ外に出すことすらできなかった本当の気持ちを、娘が、母に伝えようとしている。 「もう、しなないで……! もうユキをおいていかないで!」  ずっとひとりきりで抱えてきただろう切願に、呼吸が止まる。  強く、唇を噛んだ。強く、目を閉じた。強く、拳を握った。全身がどうしようもなく震えて、痛い。 「おかあさん! おかあさんっ!」 「……ゆ…、き……」 「!」  ここまで何も動かずユキを見つめていた狐憑が、声を発した。  口から出るのは、せいぜいが呻き声と叫び声だけで、意味のある言葉など話すはずがない、狐憑が――。 「っ!?」  弾かれたように視線を向けた先で、俺は有り得ない光景を見る。  狐憑が、呆然と目を見開きながら口元を抑えていた。その間にも「ゆき、ゆき」と壊れた機械のように、どんどん声が零れ落ちていく。  狐憑の顔に浮かぶ怯えと焦りの色が、これが決して野狐の意思ではないことを物語っている。――それなら、まさか。 「……在里、なのか?」 「おかあさんっ、ユキのこと、わかるの……?」  在里が、ユキの言葉に反応して、ユキの名前を呼んでいる。  前世の記憶を思い出したのか? いや、それ以前に――! 「在里、お前っ、まだ……」  まだ、抗っているのか。  俺たちが野狐と相対している間、いや、それよりもずっと前から。  たったひとりで。心だけで。 「……っ、諦めたのは、俺だけかよ……!」  ユキも在里も、最後まで諦めていない。この母子は、本当によく似ていた。  恥ずかしい。腹立たしい。弱い自分が、心底嫌になる。だが、反省は後回しだ。全部終わらせたあとで、膝を抱えながら部屋の中を転がってやるから。だから、今は――! 「!」  ありったけの力を込めた右足が、僅かに動いた。ほんの少しだけ前に進んだその足を起点にして、今度は左足を動かす――動く。  霧の拘束が、明らかに弱まっている。おそらくは野狐の動揺が影響しているのだろう。  これなら行ける。まだ間に合う。前に進め。前に、前に、前に――! 「言いたいことがあるなら言えよ、在里」  重い足を引きずりながら、芋虫のような速度で近付いてくる俺のことは視界に入っているはずだ。けれど、野狐は何もできない。自分の中で起こっている異変に、完全に気を取られている。 「お前はずっとそうだな。どうでもいいことはぺらぺら喋るくせに、肝心なことは何も言わねぇ」  正直、鬱陶しい奴だと思っていた。面倒くさい奴だと思っていた。  それが今は、そんな奴を助けるために、インドア派な俺が汗だくになって、身体中ギシギシ言わせてるんだから、世の中は本当に何が起こるかわからない。 「お前の娘は、ちゃんと言ったぞ」  だから、後で褒めてやってくれ。 「ほら、言えよ」  俺も、今度はちゃんと聞くから。 「言え! 在里っ!」 
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