母親が間違えて買ってきたんだ

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 た す け て 「……!」  己の口から音を伴って現れた、たった四文字の言葉に、狐憑が愕然とする。やがて、その目に絶望の色を浮かべながら、両肩を抱いてかたかたと震えだした――瞬間。俺の両足の枷が、まさしく雲散霧消する。 「っ!」  いきなりの解放で前につんのめりそうになった俺は、そのまま地面に両手をつき、クラウチングスタートの要領で一気に駆け出した。俺の拘束が解かれたということは、すなわち。 「キュー! 今度こそ決めろ!!」  狐憑の、頭上。自由になった気狐が、再び青い炎を全身にまといながら弾丸のように落ちてくる。  真下にいる狐憑に、もはや覇気はない。けれど、まだ諦めるつもりもなかったらしい。すんでのところで我に返り、前に跳躍して逃げることで気狐の攻撃を背後に流した。  僅かに上がる、砂煙。気狐はまた、狐憑に触れられなかった。二度目の、失敗。――いいや、まさか。 「そっちがフェイクだ、今度はな」 「……!」  わざわざ俺のいるほうへ跳んできてくれるなんて、ありがたすぎて涙が出る。  着地点で迎え撃つために身構える俺の姿が、無防備な瞳に映り込んだ。完全に追い詰められた狐憑に、もう抵抗の意志はない。 「そういえば、俺が好きなヤイバーマンを教えてなかったな」  昨日の他愛もない雑談を、ふと思い出す。  ぐっと握った右の拳に、必要以上に力が入った。殴る必要はなかった。けれど、殴りたかった。理不尽だろうと何だろうと、とにかく俺は、思いっきり、こいつを殴りたかった。 「俺が好きなのは、ヤイバーマンのくせに、刃だっつってんのに、なぜかひとりだけ最後まで拳で戦い続けた愛すべき馬鹿――ヤイバーブルーだっ!!」  渾身の力を込めた、青い炎を灯した拳。  在里の白い頬へストレートに決まったそれが、嫌な感触と、嫌な痛みと、確かな手応えを伝えてきた。人の中に本来はあるはずのないもの――野狐を探り当て、掴み取り、引き剥がす! 「っらあ!」  拳を振り抜いた勢いで、在里の身体が軽く吹っ飛ぶ。そのまま地面に転がる直前。全身の輪郭が僅かにぼやけて二重になったかと思うと、外側の影だけが名残惜しげに離れ、やがて小さな淡い炎へと変化した。  それは、宿主から別れた野狐の姿。  あとはもう消えてしまうだけの、最期の灯火。 「スーくん、やったッス! さすがッス!!」  遠くからのノルさんの歓声を聞きながら、ほっと安堵の息をはいた先で、在里のつむじを見下ろす。もう野狐は落ちて正気に戻っているはずなのに、地面に座り込んだまま動かない。顔を伏せて軽く頬を抑えている姿に、強く殴りすぎたかと不安になった。 「……おい、在里」 「――騙された」 「っ」  びくっと、思わず肩が上がった。連動するように脳内で蘇る、古い記憶。  友達だと思っていた奴が、俺の狐守としての力を目の当たりにした途端、顔を歪めて去っていった。それを何度も繰り返した結果、俺の居場所はなくなった。狐守は普通の人間とは友達になれないのだと、幼いころには、もう思い知っていた。   期待はしないと決めた。関わらないと決めた。そんな中、初めて例外ができた。けれど結局は在里も、そういう人間――。 「水筒がヤイバーレッドだったから、俺はてっきり筒井はレッドが好きなんだと思ってたのに」 「そっちかよ!!」  ああ、ああ、そうだった! お前はそういう奴だったよ! 俺のシリアスを返せ! と、心の中で思いっきり叫んで恥ずかしさを吹き飛ばしてから、盛大な溜息をつく。 「……母親が、間違えて買ってきたんだ」 「ははっ、あるある」  顔を上げて微笑んだ在里は、いつも通りで。だから俺も、何も特別なことを言うつもりはない。  俺が差し出した手を、在里が掴んで立ち上がる。顔を見合わせて、なんとなく、二人で笑った。
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