母親が間違えて買ってきたんだ

12/12
前へ
/81ページ
次へ
「……おかあ、さん……」  戸惑ったようなユキの呼びかけが、そっと耳朶(じだ)を打つ。やけに遠くから聞こえてきたことに違和感を覚えて顔を向ければ、三人のキツネは拘束が解かれているにも関わらず、同じ場所に留まっていた。  不安で揺れるユキの瞳が、瞬きひとつする余裕もなく、まっすぐ在里を見つめる。 「在里、お前は……」  そうだ。こいつは野狐に浸食されながらも、ユキの声に応えていた。てっきり記憶を取り戻したとばかり思っていたが、目の前にある横顔をまじまじと窺ってみても、特に何かが変わったようには見えない。――それが。  ユキと視線を合わせているうちに、どんどん変化していく。朝のように、春のように。ゆるく、やわく、綻んでいく。  完全に、いらない心配だった。こんな顔、母親以外に誰ができる? 「もうちょっと待っててね、ユキ」 「っ!! ……うん、うん……っ!!」  びくんと全身を大きく震わせたユキが、泣き出しそうに微笑みながら、何度も何度も頷いた。胸の前で両手を組み、何かに耐えるように俯いてしまったユキの頭を、両脇に立つ金と銀のキツネが優しく撫でる。  全身の力が、ふっと抜けた。本当に全部終わったのだと、実感は伴わないながらも理解はできた。 「筒井、あの子は――」 「……あの子?」  プチ燃え尽き症候群のようなものになっていた俺は、在里に対するリアクションが一拍も二拍も遅れる。  あの子? どの子だ? ユキのことを差しているなら、在里が向けている視線は正反対の方向で――。 「お前、まだいたのか……っ」  もうとっくに消えてなくなっていると思っていた野狐の炎が、少し離れた場所で鬼火のように漂っていた。さっきよりも一回り小さくなったようには見えるが、それでもまだ、点火したての線香花火よりは寿命が長そうだ。 「普通なら、宿主から離れた瞬間に消滅していてもおかしくないんだぞ。どんだけ規格外――って、おい! 在里っ!」  何を思ったのか、目の前の変人は、片手をそっと野狐に向けて差し出した。お椀型のそこに甘い水を見つけた蛍のように、野狐が光の軌跡を描きながら、ゆっくりと、ゆっくりと近付いてくる。 「きゅ!」  これは一体どうしたらいいのかと、固唾を呑んで見守っていた――そんな時。物凄い勢いでやってきたキューちゃんが、宙に浮かぶ野狐をボールさながら、尻尾のバットで豪快に打ち上げた。炎はそのまま場外ホームラン並みの弧を描いて飛んでいき、公園広場に張られた結界に跳ね返されて、ぽとりと落ちる。 「いやいやいやいやお前それはオーバーキルだろ絶対やっちゃだめなやつだろ」 「きゅ?」  在里を守ろうという意識が最優先に働いたのは、よくわかる。わかるが、流石に胸が痛む。俺を見上げて、しばらく何かを考えていたキューちゃんは、やがて大きく頭を前に振り、そのまま野狐をとことこ追いかけていった。 「……止めを刺しに行ったんじゃないだろうな、あいつ」 「筒井」 「お前も不用意に手を出すな、危ねぇだろ」 「野狐は、あの状態でも周りが見えていたし、俺のことがわかっていたよな?」 「あ? まあ、お前のところに来ようとしたってことは、そうなるだろうな」 「つまり、話ができるってことだ」 「……ん?」  嫌な予感がする。この宇宙人の次の台詞は、きっと日本語じゃない。 「よかった。ずっと話してみたかったんだ、あの子と。じゃ、ちょっと行ってくる」 「待て待て待て。何がどうなって一体そうなるんだ、いいからここで大人しくしてろお前はっ! 在里!」  と、俺が言ったところで止まるような奴じゃないことは、よくわかってる。だが、こうして逐一もやもやを吐き出していかないと、このユーマには付き合っていられない。キューちゃんを追って、もうとっくに駆け出している在里の後ろ姿に向けて、俺は特大の溜息を発射した。  消失しない野狐なんて、お目にかかったことがない。どんな危険を孕んでいるかわからないので、自然と俺も在里に着いていく形になる。嫌がる身体に鞭を打って足を踏み出した、そのとき。  かくりと、膝が抜けた。 「え?」  突然のことに思考が付いていけないまま、俺はその場に崩れ落ちる。  ぞわり、と。背筋が何かの警鐘のように一気に凍り付いた瞬間――恐ろしいまでの重圧が全身を押し潰した。 「……っ!!」  厭忌。憎悪。殺意。  地面に這いつくばったまま呼吸すらできない俺の頭の中で、どす黒い思念が無慈悲に暴れ回る。違う、これは。こんな凄まじすぎる感情は、絶対に人間が持ち得ていいものじゃない。 「ふせて!!」  聞き慣れたはずの少女の声が、聞き慣れない激しい響きを帯びて、光のように空間を切り裂く。間髪を容れず、ガラスが割れる音と、落雷のような爆発音が、有り得ないほどの音量で合奏した。  地面に伏せていても根こそぎ持って行かれそうなほどの衝撃を、歯を食いしばって耐え抜く。おそらくは俺の斜め後ろの方向にあるだろう爆発の中心地に向け、おそるおそる首を巡らせた先で見たものは――。  砂煙が舞う中。  野狐と、野狐へ向かっていた俺たちを庇うように、両手を広げて立つユキの小さな後ろ姿と。  少女の正面。その、上空。結界が解かれた空間を見下ろすように佇む、ひとつの人影。 「……嘘だろ」  古民家カフェ狐し庵の店長であり、旅館こしあんの主人であり、ユキの父親であり、在里の以前の姿のときの夫であり、キツネの中でも限られた天狐の座に着くひと。  ――本行式(ほんぎょうしき)。  そのひとが、そこにいた。
/81ページ

最初のコメントを投稿しよう!

60人が本棚に入れています
本棚に追加