もう、我慢しなくていいぞ

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 欠けた月を背にした、黒い太陽のようだった。  そんな詩的な表現を使ってしまったのは、シキさん自身が発する力の圧によって八方になびく黒髪が、光の照射のように見えてしまったからか。それとも、とんでもない状況に直面して、論理的な思考ができなくなっているからか。  岡山デニムの着物姿なのは、別に珍しくない。顔の筋肉を全く動かさない無表情も、別に珍しくない。  元から長身な体格が何倍にも膨れ上がってみえるほどの、圧倒的な存在感と威圧感。そこから更に累乗に跳ね上がった憤怒の迸りが――ただただ、(おそ)ろしい。  爆発の余波は、完全に過ぎ去っていた。それでも、動くことができない。  全身にのしかかっていた重力も、幾分か和らいではいる。けれど、立ち上がろうという気力を奪い尽くされた。犬のように這いつくばったまま地面を睨み付けている俺の耳が、やがて遠くからやってくる足音を捉える。 「大丈夫か、筒井」 「……在里」  野狐を追いかけていったはずの在里が、片膝をついて心配そうに俺を見下ろす。  この辺り一帯は、おそらくシキさんの感情が伝播して渦を巻いている。俺にとっては、重しをつけられて泥沼の底に沈められたような息苦しさだが、目の前のこいつの通常運転っぷりはどういうことだ。 「……いや、お前、怖くねぇの?」 「え? ――ああ」  在里は不思議そうに首を傾げてから、俺がさっきから頑なに直視することを躊躇っているシキさんを、いともたやすく見上げてしまう。そうして、驚くことに――ゆっくりと、微笑んだ。 「あのひとを怖いと思ったことは、一度もないよ」  ユキに向けた母親の顔とは、またほんの少しだけベクトルの違う表情を浮かべてから、そっと目を閉じる。そのまま俺に向き直った在里は、いつも通りの、どこにでもいる、爽やかイケメン高校生に戻っていた。 「そんなことより――」 「そんなこと? そんなことって言ったか? 今のこの未曾有の状況を?」 「はは、大丈夫だって。ちょっと頑固なひとだけど、本気で話せばちゃんと聞いてくれるから。ただ、今はその時間が惜しい。あの子が、先に消えてしまうかもしれない」  あの子、と在里が目を向けた先。野狐が飛んでいった地点に、何やら光の靄のようなもので形成された球体のような空間ができあがっている。こっちはこっちで、何が起こってるっていうんだ。ここに来てのイベントの同時発生に、頭が痛みを訴えてくる。 「という訳だから、この場は筒井に任せる」 「――は? えっ、おま、なっ」 「できるだけ時間を稼いでくれ。ほら、さっさと立つ立つ」 「いてててて! わかったから、その角度で腕を引っ張るな!」  肩を脱臼するくらいなら、めちゃくちゃ怖くても立ち上がったほうが若干マシだ。生まれ立ての子鹿のように足をがくがくさせながらも、何とか在里と同じ目線に辿り着く。 「ユキを頼む」 「!」  そうだ、ユキ。シキさんの何らかのアクションを、何らかのアクションで防いでくれたのだろうキツネの少女の姿を、慌てて振り返る。  ユキの背中は、先程と変わらず遠くにあった。未だ上空にある父親と、無言のまま対峙している。まさに、一触即発。ここに、人間の俺が首を突っ込む余地が本当にあるのか。
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