もう、我慢しなくていいぞ

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 どういうことなのかと、ユキの背中からゲンさんへと視線を向けた先で、革手袋に包まれた黒い人差し指が、ぴんと跳ね上がる。 「旦那からは会えないということは、裏を返せば姐さんから接触してくるなら会ってもいいということじゃないですか。なので、何かあったら連絡してほしいと、姐さんに旅館の名刺をこっそり渡したりしてやした」 「そんな、一休さんのとんちじゃないんですから。涙ぐましい営業までかけて……」  そうだった。このひとには、お茶目で直情的という意外な一面があることを忘れていた。シキさんの圧は相も変わらず痛いほど刺さってくるが、それを一瞬でも忘れてしまえるくらいには、肩の力が抜けてしまう。 「何か月も、ただ姐さんの傍にいて姐さんの助けになろうとしている野狐を見ていて、気が緩んでしまったんでしょうね。あるいは、あたしには端から愛なんてものを理解できていなかったのか。……だから、野狐の好意の変貌に気が付けなかった」  姐さんを狐憑にして、みすみす危険に晒してしまったのは、やっぱりあたしの失態なんですよ。そう言って、ゲンさんは笑う。笑わなくてもいいときにこそ笑ってしまう、一周回って不器用なひとだった。 「旦那に粛清されることも、覚悟の上です」 「……なんで、ゲンさんがそこまで」  粛清なんていう空恐ろしすぎる単語も、頭上のシキさんを知ってしまえば冗談だとも思えない。新しい刺激に震える背筋が、その勢いでまっすぐに伸びた。 「だって、悔しいじゃないですか」  きっちりとネクタイが締められた首元に。いつもよりも更に低められた声に。力が、籠もる。 「急に湧いて出てきた野狐が姐さんの傍にいられて、どうしてずっと姐さんを想い続けている旦那とお嬢が傍にいられないんですか」 「……ゲンさん」  これが、ゲンさんの原動力。冷静さだとか狡猾さだとか、そういう温度の低い地層の奥に隠されていた、それこそマグマのような熱い本音。  この瞬間だけは、シキさんの憤激よりも、ゲンさんの悲憤に肌を焼かれる。遠くの太陽よりも、近くの灯火が、胸を焦がすこともある。 「――旦那が、降りてきやした」 「!」  勢いあまって口から飛び出しそうなほど、心臓が跳ねる。ゲンさんの目線を、まだ俺は追うことができない。 「意外に長考でしたね。姐さんのとっさの判断が、いい具合に旦那を混乱させてくれたようです。ただ、やると決めたことは何があっても実行するおひとだ。お嬢との衝突は避けられやせん」 「……在里が、シキさんは頑固だと言ってました。でも、本音で話せばわかってくれるとも」 「適格な助言だ。まさに、その通りです」  ゲンさんが声を上げて笑った。やがて、ゆっくりと俺に視線を移す。とってつけたようなことをと思われるかもしれやせんが。そう前置きした薄い唇が、緩やかな弧を描いた。 「あたしの計画は、スーさんがいなければ、そもそも実行できなかった。お嬢と姐さんとの縁を大事に掴んで結んでくれたあなたがいてくれなければ、家族三人が同じ空間を共有する、この瞬間さえ存在しなかった」 「……、めちゃくちゃカオスなことになってますけどね。――でも」  拳の中に集束した恐怖心をぐっと握りしめて、ようやく空を仰ぐ。  直視してはいけない黒い太陽を見据えるために、瞼をこじ開ける。 「いつか、笑い話にしますよ」  数日後か。数年後か。  狐し庵の大きなテーブルを囲んで。  ゲンさんの絶品料理を摘まみながら。  あれはひどかったと、皆で笑い飛ばす。  そんな、いつかの未来のための。  これは、シキさんに向けた宣戦布告。 「――あなたが、あたしらのおこもりさんでよかった」  サングラスの隙間から僅かに覗いた銀の瞳が、俺に向けて眩しそうに細められる。シキさんやユキや在里のことを誰よりも大事に想っているこのひとが微笑んでくれる答えを出せたのなら、きっと大丈夫だ。  ずっと重荷に感じていた「おこもりさん」という言葉が、今はひどくくすぐったい。思わず笑い返してしまう俺の頭の中で、かちり、かちり、かちりと。最後の飛び石が置かれる音がする。  道は成った。あとはこの、痺れて動かない重い足を、ひたすら押し進めるだけでいい。  深海へ潜る前のような、長くゆっくりとした呼吸をして――さあ。 「いってきます」 「はい、いってらっしゃい」  これ以上ない、送り出しの言葉。これ以上ない、心強い支援。これを背中にしておきながら、進めないだなんて弱音は絶対に吐きたくない。  冷や汗にまみれて、酔っぱらいのように歩く俺は、我ながら心底かっこ悪いと思う。  でも、ここには、それを嗤うひとは誰もいない。  だからこそ、せめて。  そのひとたちに恥じないように。  顔を上げて。胸を張って。    ――前に、進め。
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