もう、我慢しなくていいぞ

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 シキが本気で怒るのは、いつだって俺やユキのためだった。それはきっと、今も変わっていない。  ただ、最期の記憶よりも見た目が少し大人びていて驚いた。少年の域を出たばかりの瑞々しい青年が、威厳のある大人の男性に変わっていた。短かった髪も尻尾のように長くなっていたから、ついつい触れてみたいなんて思ってしまった。  キツネが人の姿をとるときは、その精神性が外見に大きく影響を与える。  ユキも、すっかりお姉さんになっていた。二人を大人にしたのは、大人にならざるを得ないようなつらい目にあわせてしまったのは、間違いなく私の――俺の責任だ。  この瞬間も、俺の自分勝手な行動のせいで、父と娘が睨み合う構図ができあがってしまっている。  申し訳ないと思いつつ、俺は野狐の元へ向かう足を止められない。  ――お前は、お前のまま生きろ。  シキがくれた言葉が、生まれ変わった今でも、この魂に刻まれているから。  俺は、俺の我侭を貫く。速度を上げて、野狐の光の空間へ頭から飛び込む。  上も下も、右も左も。境界がわからないほど、真っ白な世界だ。外から見た規模と、中に入って実感する広さが明らかに合っていない。向かうべき方向を見失って立ち尽くす俺の耳に、かすかな鳴き声が届く。  ずっと前から知っていたような不思議な音色に誘われて、足が勝手に動き出した。ドライアイスの霧を全身で掻き分けながら進んでいくと、やがて北極星にも似た輝きが見えてくる。  ゆらりと揺らめく炎は、探していた野狐に間違いない。まるで灯台の光のようなそれを目印に近付いていくと、その真下に背中の茶色い小さな生き物がいることに気がついた。  筒井と一緒に、俺を助けようとしてくれたキツネの子だ。野狐を追いかけて、ここまで来てくれたのか。  炎に向かって訴えるように鳴きながら、短い脚を必死に伸ばしている姿が、いじらしくも愛らしい。ひょっとしたら、今にも消えそうなあの子のことを応援してくれているのかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、後ろからひょいっと持ち上げてしまった。 「ありがとう。君は優しいね」 「きゅっ? きゅ! きゅ!」  驚いたように俺を見上げる大きな黒い瞳が、瞬く間に細められる。そのまま嬉しそうに首元に擦り寄ってくるキツネの子が、あまりにも可愛くて、ほかほかで、ふわふわで、いい匂いで。思わず、小さく声を立てて笑ってしまった。 「アリサトさん。キューちゃん、あずかるッスよ」  不意に、すぐ後ろから呼びかけられる。あの場にいた人たちの中で、俺が唯一知らなかった声。体ごと振り返ると、これが初対面になる金髪の青年が、人好きのする笑みを浮かべながら両腕を差し出していた。 「野狐も、流石にそろそろ限界ッス。店長の……シキさんの、あのめちゃくちゃな怒気から身を守るために、この結界の簡易版みたいな空間を作った分、消滅までの時間が早まってるみたいッス。話をするなら、今しかチャンスはないッスよ」  俺が動くよりも先に、キツネの子――キューちゃんが、男性に向かってジャンプした。それを難なくキャッチした彼が見上げる方向へと、俺も視線を追随させる。そうだ、俺のやるべきこと。もう、時間がない。 「アリサトさんに何かあったら、困っちゃうひとが沢山いるッス。だから、頑張ってくださいッス!」  万が一、不測の事態が起こったとしても、オレっちたちがバッチリ守るッスよ! そう言って拳を握る男性と同調するように、肩にいるキューちゃんが猛々しく鳴く。この上なく頼もしい応援を受けて、俺の頬が自然と緩んだ。  改めて、天を仰ぐ。  ずっと一緒にいたはずなのに、こうして向き合うのは初めてだった。 「そこにいる?」  君と、話がしたい。  高く跳びたがっていた俺の願いを、叶えてくれた。  先輩に詰め寄られた俺を、守ろうとしてくれた。  俺の側にいてくれた。俺を好きになってくれた。  ありがとう、と。ごめんね、を。声に出して伝えたい。  一つにならなくても、二人でいたほうが、きっともっと楽しいって、伝えたい。  炎が、ゆっくりと降りてくる。  伸ばした指先で触れたそれは、どこまでもやさしく、あたたかかった。
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