もう、我慢しなくていいぞ

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 俺の言葉に、さざ波ほどの表情の変化も見せないシキさんは、さっき、こうも言った。あれに、これ以上、関わらせない。  俺もユキもシンプルに、野狐を在里に近づけさせないという意味で受け取ったが、シキさんの真意は違っていた。  在里がキツネという影の領域に再び立ち入ることを、シキさんは絶対に認めない。  その為に、野狐を消滅させようとしている。有里が狐守になることを阻止しようとしている。――当の本人の意志など、無関係に。 「……なんで、あんたはそうなんだ」  干上がった喉が、引き()るように痛い。それでも、掠れた声を出さずにはいられない。 「なんで、何もかも自分一人で決めようとするんだ! 在里の気持ちを、一度でも確認しようと思ったことがあるか!?」 「必要ない」  取り付く島もない。暖簾(のれん)に腕押し。いや、そんな可愛い表現では間に合わない。鋭利な音の刃で、痛みを感じる暇のないほど、鮮やかに切り捨てられる。 「野狐を消せば終わる。……あれの記憶ごと」 「は!? なに言って――」 「退け」  僅か、一歩。足を踏み出すという何気ない動作。たった、それだけで。 「!!」  シキさんの足下から波紋のように広がった黒い炎の渦が、娘のユキをも巻き込んで俺を吹き飛ばした。  目まぐるしく二転三転する視界が、ようやく土だけを映して静止しても、まだ脳が揺れている。ひどく気持ちが悪い。自分の歯で、唇でも傷つけたのか。血の味と、砂利を噛む音がした。  まさかこんなにも容易く、丸められた紙屑のように地面を転がる日が来るとは思わなかった。全身の痛みよりも先に、その事実に衝撃を受ける。この凶悪なジェットコースターに比べたら、野狐の暴風などファンシーなメリーゴーランドだったと、もはや愛おしさすら覚えながら十数分前を懐かしんだ。 「っ、ユキ……」  けれど、ずっと思い出に逃げているわけにもいかない。近くにいる気配がないユキの姿を探すため、せめて上体だけでも起こそうと、腕に渾身の力を込める。  ユキは、俺よりもシキさんに近い位置で留まっていた。正座のような形で座り込んでいるところを見ると、どうやら軽傷らしい。ただ、俺と同じように、黒い炎の残滓のようなものが体にまとわりついていて、全く動けないでいる。  目立った怪我がないことに安堵の息をはいた途端、吹き飛ぶ直前まで記憶が巻き戻った。  シキさんは、なんて言った?  在里が自力で思い出した記憶を、消す?  ようやくユキと、母子の再会が果たせたのに?  やっとユキが、母親のことで心から笑える日が来るのに――?  くつくつと、笑いが込み上げる。ぐつぐつと、(はらわた)が煮えたぎる。 「……そうだよな。そういうことができるんだよな、は」  記憶操作。シキさんの超攻撃的な炎とは、まるで結び付かないその能力は、ゲンさんの得意分野だった。家族の仲を取り持とうと水面下で尽力してきたあのひとに、在里の記憶を消すことを強要するつもりなら、これほど残酷なことはない。 「じゃあ、なんで。あんたは自分の中にある在里の記憶を消してないんだ」  シキさんが、歩き出す。  野狐と在里がいるだろう空間へ続く道を体でふさいでいた俺とユキは、遠く左右に分断されたまま、為す術もなく見守ることしかできない。  まるで、海を割ったモーセだ。それが定められた使命であるかのように。盲目的に、機械的に。一切を排除しながら前進する。 「覚えていることが、そんなに辛くて苦しいなら、ずっと引きこもって目の下に真っ黒い隈をつくる前に、とっとと忘れてしまえばよかっただろ」  生まれてから今まで、一度も出した覚えがない重い音。こんなに深刻な響きを乗せた低い声を、俺が誰かに向けることがあるなんて。そんな人生を、送ることになるなんて。  けれど、シキさんには虫の鳴き声にしか聞こえないのだろう。依然として、歩みは止まらない。 「ユキに対してだって、そうだ。そんなことができるなら、ユキが在里の存在に気付いたとき、さっさと消してやればよかった」  わざわざ、在里の母親の墓にまでユキを連れて行って。  わざわざ、近くにいた在里の気配を利用して諦めさせるなんて、回りくどいことをしなくても。 「なんで、なんで」  なぜ。どうして。よりにもよって。 「死んだなんて嘘をついた!!」  ――シキさんの足が、止まった。  それは確かな、明らかな異変。  全てを超越した存在が見せた、初めての。 「ユキが母親を亡くしてどれだけ悲しんだかなんて、見てない俺でもわかる! なんで、あんたは、それを見ていたあんたが、嘘でも死んだなんて言えたんだ!」  そうか。  俺はずっと、怒っていた。 「ユキの二度目の悲しみは必要なかった!!」  どうしても、脳裏に浮かんでしまう。  見ていなくても、わかってしまう。  抱えきれないほどの大きな悲しみを、それでもひとりきりで抱えるしかなかった白いキツネが、確かにいたはずだから。  母親が恋しくてたまらないのに、声を殺して鳴かなければいけなかった、小さな小さなキツネの姿が、確かにあったはずだから。 「っスーちゃん……、スーちゃん…」 ユキの声がする。すぐ、近くから。  顔だけを向ければ、まるで俺のイメージから飛び出してきたかのように、そこに白いキツネがいた。  重くて熱いはずの、黒い茨にも見える炎を、小さな体に痛々しいほど巻き付けながら。脚を引きずるように、いや、もはや這うように。それでも、俺の元へとやってくることをやめない。  やがて、星空が結晶化した大きな目がゆっくり近づいてきたかと思えば、頬に優しい何かが触れた。 「なかないで……っ」  泣く?  誰が?  俺が? 「……俺が、泣くわけないだろ」  震える声で答えても、説得力はない。  でも、真実だ。俺が泣くわけない。  ユキが――いちばん泣きたくて、いちばん泣かなきゃいけないお前が、まだ泣けてないのに。 「――筒井のそういうとこ、好きだな」
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