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ざあっと、柔らかな風が吹いた。
永く暗い冬の終わりを告げる、花の香りを乗せた暖かい春風と共に、もはや聞き慣れてしまった声が降ってくる。
――そう。文字通り、降ってきた。
「ぐえっ」
「あ、ごめん。着地のこと、全然考えてなかった」
俯せのまま転がっていた俺の背中にのし掛かる、突然の衝撃。同時に、ぱきんと、どこかで何かが砕けたような音が聞こえてくる。もしや骨でも折れたかと、嫌な予感が頭をよぎるが、それほど痛みはなかったし、流石にそこまでやわじゃない。
「ありがとな。ユキのために、泣いてくれて」
「……だから、泣いてねぇっての。っつーかどこから湧いてんだお前は、さっさとどけっ」
在里を背中から振り落とすつもりで勢いよく起き上がると、念のため、座り込んだまま背骨の安否を確認する。大丈夫。無事だった。
「……ん?」
はたと気づく、違和感。体が、自由に動ける。
黒い炎の束縛も、負の感情による息苦しさも、いつの間にかすっかり消えてなくなっている。
一体、何が起こったのか。その現象の発端であるシキさんの様子を確認しようと顔を上げた俺の呼吸が――止まる。
何事にも動じない天狐の目が、大きく見開かれていた。
驚愕と、絶望と、憧憬と。そして多分、愛情ってやつが。シキさんの緋色の瞳の中で、それぞれの色を持ち寄りながら絶妙に溶け合っている。
見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線を逸らした俺の視界に、膝をついて娘の頭を優しく撫でる母親の姿が映り込んだ。
「おかあさん……」
「ユキも頑張ったね。大丈夫、もう痛いことはないよ」
ぱきんと、また音がした。瞬間、ユキの体を覆っていた炎が光の粒子へと変化し、そのまま滲むように消えていく。何が起こっているのかわからず唖然とする俺の目が、また新たな異常を捉えてしまった。
在里に正面から張りついている、細長い何か。まるで若草色のマフラーを首に巻いた余りのように垂れ下がっているそれは、よく見れば端のほうに小動物らしき尻尾と後ろ脚がくっついている。だとすると、逆側には頭と前脚があると想像がつくが、在里の肩の後ろへと折れ曲がってしまっているので、俺の位置からは確認できない。けれど、どう見てもそれは――小さなキツネだった。
「お前、本当に……」
「筒井先輩、って呼んだほうがいいかな」
からかうような声音で、申し訳なさそうに眉をひそめながら、在里が面倒くさいことを言い出す。
ああ、本当に。こいつは狐守になったのか。在里が決めたことなら、俺には何も言えない。言ったところで、どうにもならない。――いや、それでもひとつだけ。
「先輩は、やめろ」
「え、残念。おもしろいと思ったのに。……さて」
小さく笑ってから、在里が立ち上がった。迷いのない視線で、遠くにいるただ一人を見つめる。
「ちょっとお父さんとお話してくるね、ユキ」
大きく頷いた白いキツネが、ぴょこんと俺の膝の上へ飛び乗ってきた。それを潰してしまわないように腕で囲いながら、ゆっくりと離れていく在里の背中を見守る。
「はわー、よかった! アリサトさん、ここにいたんスね! 野狐との話が終わったと思ったら急に消えちゃって、ほんっっっとにびっくりしたッス! ひょっとして瞬間移動ってやつッスか? うっは、ちょーかっこいいッス! ね、キューちゃん!」
「きゅー! きゅっきゅっきゅー!」
誰が来たのか雰囲気だけでわかる騒々しさは、もはや尊敬に値する。わざわざ顔を向けて確認するまでもないので、視線は在里に固定したままだ。そんな俺の頭の上に、よく知った重さが戻ってきた。
「なにやってたんだお前は、肝心なときに役に立たねぇな」
「きゅー? きゅ、きゅ」
あの場にキューちゃんがいたとしても、天狐のシキさん相手にどうにかなるとも思えない。なので、これは自己嫌悪の八つ当たりだ。軽く頭を揺らす俺に対して、キューちゃんは生意気にも不満の声を上げてくる。
「エンディング直前で、何とか役者が揃いやしたね。お疲れ様です、皆さん」
すっと、こちらもいつの間にか現れたゲンさんが、スマートに手を差し出してくれる。エスコートを受けた俺は、これまでずっと懇意にしていた地面と、ようやく一定の距離を取ることに成功した。
「あとは、姐さんにお任せしやしょう」
右と左に、金と銀のキツネ。腕の中の白いキツネ。そして、頭の上のオコジョ。
俺たちはひとつになって、とある夫婦の邂逅に立ち会う。
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