もう、我慢しなくていいぞ

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 こちらを見ていたはずのシキさんの視線は、再び正面に戻されてしまった。  在里に差し向かうでもなく、かといって背を向けるわけでもない。そのちょうど中間という半端な状態は、シキさんの中の迷いをそのまま表しているかのようだった。  俺の位置からは、そんなシキさんを遮るように在里の後ろ姿が見えているので、さっきは隠れていてわからなかった黄緑色のキツネの顔が確認できた。眠っているのか、その目は閉じられていたものの、前脚はしっかりと在里の肩に抱きついている。そんなキツネの背中を片手で大事そうに支えつつ、シキさんまであと数歩というところまで来て、在里が止まった。 「久しぶり、シキ」  シキさんは何も答えない。顔を向けようともしない。  完全に無視を決め込むつもりなのだろうか。けれど、その作戦は無謀としか言い様がない。数ヶ月程度しか付き合いのない俺にだって、いや、俺だからこそわかる。 なぜなら、在里颯真という奴は――スポーツ万能なのだ。 「っ」  まるでバスケットボールの完璧なディフェンスのように、在里がシキさんの正面に素早く回り込んだ。俺も何度も帰宅を阻まれた経験がある、恐ろしいスキル。流石のシキさんも驚いたに違いない。表情こそ変わらないものの、ほんの僅かに肩が上がった瞬間を、俺は見逃さなかった。 「シキ、こっち見て」 「…………」  在里が移動してくれたお陰で、向かい合う二人の横顔がよく見える。いいカメラワークだなと、もう傍観することしかできない俺は、呑気にもプロデューサー気取りだ。  けれど、やはりシキさんは手強い。何かを堪えるように在里の足元へと視線を落とし、しまいには瞼のシャッターまで下ろしてしまった。頑なに自分を拒み続けるシキさんを見て、ふむ、と在里は何か考え込む仕草をする。天下の天狐を目の前にしながらの、あのマイペースっぷり。在里は、どこまでも在里だ。 「この姿の俺は自分の妻だった女性とは関係ないとか、もう嫌いになったから顔も見たくない、っていうんだったら、そのままでもいいけど」  ぐっと、シキさんの口元が歪むのが、はっきりと見えた。しばらくの逡巡の後、目を閉じることで生まれていた眉間の皺が、ゆっくりと消えていく。  ようやく、夫婦の視線が絡んだ。  百年以上の時を経て、ようやく。  青白い光が、二人の輪郭を縁取ってまばゆく輝く。気がつかなかった。今日の月はこんなに明るかったのか。  夏に差し掛かった夜とは思えないほど涼しく清らかな風は、在里の野狐――いや、気狐による祝福なのかもしれない。世界の透明度が何段階も増したかのような錯覚を覚えて、息をすることさえ躊躇ってしまう。  しばらく、誰も何も言わなかった。長くもあり、短くもあった静寂は、やがて夫の言葉で終わりを迎える。 「……過去形に、するな」 「ふふ」  どこか拗ねたような響きを帯びた反論に、在里が笑う。  シキさんは、在里の魂そのものを、妻そのひとだと認識して、今も変わらず想い続けているんだろう。何度生まれ変わり、何度姿を変えようと、変わることなく――。 「……いや、大好きじゃん」 「大好きなんですよ。ベタ惚れなんです」  誇らしげなゲンさんの言葉が、ひどく嬉しそうだったから。つられて、俺の口角も上がってしまう。 「ユキが、いい子に育ってくれた。ちゃんと、お父さんとして頑張ってくれたんだね」 「……狐守の言葉を聞いただろう。おれに、父親の資格はない」  まさかの名指しと、まさかの内容。俺の、もう既に思い出したくもない恥ずかしい叫びは、意外にもシキさんのメンタルにダメージを与えていたらしい。 「筒井は、そういう意味で言ったんじゃないと思うけど――あ、筒井数だよ。スーちゃんって呼んであげると飛び上がって喜ぶから、覚えてあげてね」  マジで余計なことしか言わないな、あいつ。そりゃ飛び上がるだろ、恐怖で。  ちらりと横目で窺ってくる在里に向けて、俺は最大限にしかめた顔の近くで拳を握ってやる。 「あなたが、ユキや俺のことを考えてくれたのはわかってるよ。それはユキにも、ちゃんと伝わってるはずだ」  俺の腹の辺りでユキが何度も頷く姿が、まるでそういうおもちゃのように見えて、思わず三人と一匹で笑ってしまった。  在里が降ってきてから、場の雰囲気が一変したのがわかる。シキさんの軟化が理由であることは明白だが、そうさせているのは間違いなく、在里の――天狐の伴侶の魂だった。
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