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「だからこそ、信じてほしい。もう二度と、あんな別れ方はしない。いつか終わりがきても、あなたやユキがずっと笑っていられるように、俺らしく生き抜く。……その為の、この身体だと思うから」
キツネに触れていないほうの手が、在里自身の胸元をそっと押さえる。女性ではなく、男性に。動けない足ではなく、高く跳べる足に。それが、笑顔のまま終わりを迎えるために必要な変化だと、在里が確信する何かが過去にあったのだろう。
俺にはわからないが、シキさんには理解できたらしい。痛みを堪えるように、眉根が寄せられている。そんな天狐に向かって、だから、と在里は微笑んだ。
「もう一度、俺と一緒に生きてほしい」
薫風を従えて開く、花の顔。目の前で咲いた鮮やかなそれが、シキさんの時間を止める。この小さな太陽は、きっと千年の氷山すら溶かすに違いない。幸せな結末を確信して、思わずユキを支える腕に力が込もった。
「……おれは、お前が笑えているのなら、それでいい。どこにいようと、誰といようと」
似たような言葉を、つい最近聞いたことがある。ユキが、まだ前世の記憶を思い出す前の在里と再会したとき。在里の母親の墓の前で、在里と共に生きることを――諦めたとき。
俺とシンクロしたかのように、在里の表情が憂いの色に染まる。シキさんは、どうしても拒絶するつもりなのか。これだけの決意を聞いても、シキさんは別離を選んでしまうのか。
「だが――」
光が、差した。
二人を照らし出す月は、十分すぎるほど明るくて。
これ以上の光源など、どこにもないはずなのに。
「どうせ笑うのなら、おれの隣で笑ってくれ」
雨のあとだから、虹が輝く。黒雲を伴った嵐が過ぎ去れば、必ず青空が現れる。
ああ、そうだった。そんな当たり前のことを、俺は忘れてしまっていた。――このひとの、笑顔を見るまで。
目元が緩み、口元が上がる。身体的には、たったそれだけの動きなのに。
シキさんが笑っているという、その事実だけで、信じられないほど胸が震える。
きっと在里も同じだろう。ようやく出会えた太陽の光に照らされて、喜び踊る向日葵のように微笑んでいる。
シキさんが笑うから、在里も笑う。在里が笑うから、シキさんも笑う。
合わせ鏡のような、幸せの連鎖。かつては当たり前にあったに違いない夫婦の姿が、そこにあった。
だから。
「さあ、お嬢」
ゲンさんが、優しい声で口火を切る。
「ごーごーッス!」
「きゅ! きゅ!」
騒々しいコンビが、やかましく急き立てる。
「ほら、行け」
俺はといえば、思いっきり反動をつけて、白いキツネを放り投げた。
流れのままに空中で綺麗に一回転したユキが、人の姿をとりながら地面にふわりと着地する。勢いで一歩二歩と進んだあとで、戸惑ったようにこちらを振り返ってきた。
そうだよな。どうしていいか、わからないよな。
諦めることに余りにも慣れすぎていたから、願いが叶うなんて考えもしてなかったよな。
でも。
「もう、我慢しなくていいぞ」
ユキの丸い目が、大きく大きく見開かれる。
その視線が、俺からゲンさんへ。ノルさんへ。律儀にキューちゃんにまで移動してから、最後にまた俺の元へ。そうして、ゆっくりと背後を振り返った。
互いの距離をぐっと詰めて、いつでも簡単に触れ合える位置に立つ夫婦が、じっとユキを見つめている。そのどちらもが、笑顔のままだ。零れんばかりの、溢れんばかりの笑みをたたえて、娘の動向を見守っている。
ユキの頭がシキさんに向けて小さく傾き、父親が大きく頷きを返す――それが、合図になった。
いち、に、さん。自分の足が動くことを確認するような覚束なさで、ユキが歩き出す。
次第に、一歩と一歩の距離が長くなり、一歩と一歩の時間が短くなっていく。
はしる。
はしる。
強くはためく着物の裾が邪魔をして、何度も何度も足をもつれさせている。
だからといって四本足になる必要はないことを、ユキもわかっていた。
はしる。
はしる。
十五年前も、きっとこうして必死に走ったんだろう。
あのときは、出会えなかった。けれど、今度こそ辿り着く。
急ぐな急ぐな。ゆっくりでいい。
もう、どこにも行ったりしない。
「ユキっ!」
――抱き締めてくれる腕が、ちゃんと待っているから。
ユキが、泣く。泣いている。ようやく、やっと、泣いてくれた。
たったいま生まれたばかりの、世界一幸せな赤ん坊のように。
膝をついて両手を広げた母親の胸の中に、娘という最後のピースが飛び込む。
再び完成した家族のパズルを、俺とキツネと月だけが、静かに見守っていた。
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