とある狐守の愉快な日常

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「先輩って、あの先輩か? 大会に出る出ないで揉めたっていう、例の」 「バイトお疲れ様、筒井。そうそう、その先輩。揉めるというか……あの件は、俺が悪かったんだ」 「というと?」顎で話の先を促す俺に頷いて、在里は続ける。 「アイさんの風で一度めちゃくちゃ高く跳んじゃったことが引っかかって、大会どころか練習に出るのも不安になってさ。そんな俺を見かねた先輩が、お前はやる気がないのか! そんな状態で大会に出ても意味がないぞ! って叱咤激励してくれたんだけど――つい俺が、大会には出ませんって言っちゃったもんだから」 「そのまま勢い余って揉み合いに発展したってことか」  俺はてっきり、大会に出る在里へのやっかみから安易に暴力に走った最低な先輩だと思っていたが、真相を聞いた今では、印象が百八十度ほど変わってしまった。いまどき珍しい、実に後輩思いの暑苦しい先輩じゃないか。 「それで、お前を守ろうとしたアイさんが咄嗟に風を起こして、それにびびった先輩が――」 「あ、いや。それはアイさんじゃなくて、ゲンさん」 「は?」  思いがけない方向に会話が流れ始めて、思考が一瞬フリーズする。確かにゲンさんは在里を見守るために傍にいたはずなので、その現場を目撃していても不思議じゃないが、このタイミングで彼の名前が出てくるということは――あ。 「幻覚か」と、ゲンさんの得意能力のひとつを挙げると、すぐに在里から大きな同意が返ってきた。 「多分、よっぽど怖いものを見たんだろうね。それに驚いて、転んで、怪我をしちゃったんだ。かすり傷だったのが不幸中の幸いだったけど、そのことでゲンさんが責任を感じていて。それで、先輩にって、俺に手作りのスイーツを持たせてくれたんだ」 「……なるほど」  確かに、在里の先輩が発した「バケモノ」という一言が何を指していたのか、俺の中でもはっきりと答えが出ていなかった。実体化する術がなく、風しか扱えないアイさんとはイコールで結び付かないと、わかっていたはずなのに。 「その……疑って悪かったな、アイさん。俺は、てっきり――」  言い淀む俺を見て、目を細めながら嬉しそうに微笑んだ在里が、無言のままバッグを探る。やがて、色鮮やかで繊細な細工が施された、細くて小さい筒を取り出した。 「今は眠ってるから出てこられないけど、アイさんもわかってると思うよ」  元々は野狐であり、現在は気狐であるキツネに、在里はアイという名前をつけた。アイさんは、在里の母親の形見だという壊れた万華鏡を気に入ったようで、大抵の時間をその中で過ごしているらしい。キューちゃんも、顕現したての頃は水筒の中で寝ていることが多かったから、おそらく気狐とはそういうものなんだろう。 「アイさんとは、うまくやってるのか――って、まあ、お前だもんな。聞くまでもないか」 「お陰様で。最初から、誰かに危害を加えるような子じゃなかったしね。俺の言うことは、ちゃんと理解してくれるし、ほかほかで、もふもふで、つやつやで、やさしい、いい子だよ」 「うちのオコジョに聞かせてやりてぇな」俺の心底からの嘆きを、キューちゃんだっていい子だろ、と在里が一蹴する。そのありがたい言葉も残念ながら俺の胸には響かないが、バイト中は別室に放置している水筒を思い浮かべる切っ掛けにはなった。そろそろ、あいつも起きてくる時間帯か。
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