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レイン――携帯電話を持っている奴なら、老若男女問わず誰もが知っているに違いない、超有名なコミュニケーションアプリだ。俺には無用の長物だが、バイト先との連絡ツールとして使うことが、たまにある。
「ほとんど使ってないが、まあ一応。それがなんだ」
「俺と、アドレス交換してくれないかなって思って」
「…………は? なんで?」
友達でもないのに。という言葉こそ口にはしなかったが、それはお互いの共通認識だと思っていた。たまたま出会えば、なぜかほんの少しだけ会話をする程度の、ただの変人同士。日常的に連絡を取る必要性を、少なくとも俺のほうは全く感じない。
「いや、ちょっと――」
在里が言いづらそうに口をつぐむ様子を、まじまじと伺ってしまう。バスの発車時刻というタイムリミットが迫っていることがわかっていながら、思わずその先の言葉を待ってしまうくらいには、珍しい反応だった。
「在里!」
不意に、遠くから声がかかった。ご指名を受けた当人の視線を追いかけると、そこにはジャージを着た男子生徒が二人。おそらくは、在里と同じ陸上部だろう。こちらに向けて、ちょいちょいと手招きをしている。この場所で、待ち合わせでもしていたのだろうか。「すぐ行く」と、二人組に応える在里の横顔は、もう、いつもどおりだ。
「引き止めて悪かったな、筒井。きょうもバイトだろ?」
「……ああ、まあ。――げ」
どこか消化不良気味のまま腕時計を確認すれば、長針が予想外の数字を指し示している。これはやばい。非常にまずい。バス停まで全力で走ればなんとか間に合うか。いや、間に合わせる。
頭の上のキューちゃんを水筒の中に押し込め「絶対出てくるなよ! 絶対だからな! っつーか、勝手に出歩くなって何度も何度も何度も言ってるよな俺は!」と文句を言う時間すら惜しい。そのまま正面玄関へと走り出す俺の背に、気をつけて、という在里の律儀な声がかかる。
挨拶を返すこともなく顔だけで軽く振り返った視界の中で、穏やかに微笑むあいつの姿だけが鮮明に映っていた。
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