第三章 2. 論文投稿までのスケジュールを立てましょう

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第三章 2. 論文投稿までのスケジュールを立てましょう

「論文投稿の推薦?」  挽いたばかりのコーヒー豆をドリッパーにセットしながら一歩が首を傾げた。 「そう。この間の学会発表の予稿を論文にして、次の特集号に投稿しませんかっていう連絡が学会から来たんだ」 「すごいじゃん! 向こうからお誘いが来るってことは採択されやすいってこと?」 「いや、たぶんそんなことはないと思うんだけど……」  ぼこぼこと湯が沸く音とともに電気ケトルのスイッチが切れた。ドリップ用の細長い口をもつケトルに湯を移して少しだけ冷ます。以前一歩に教えてもらったとおり、コーヒーの粉の真ん中に少し窪みを入れて、周りのペーパーに湯がかからないように中央から細く湯を注ぐ。最初の数秒で全体を湿らせて二十秒蒸らすらしい。苦味と甘みが混じる濃厚な香りが手元から立ち上ってくる。ちらりと隣に立つ一歩を見ると、指でオーケーと作っていた。三分で必要量を抽出できるように、湯量を調整しながらぐるぐると渦巻きを描いていく。  コーヒーの粉が湯を吸って土手のように膨らんだら、それを崩さないように落ち着いて湯を注ぎ続ける必要がある。と、考えたところで案の定、土砂崩れのように湯が流れ出てしまった。 「それで、先生にはもう相談したの?」  俺が首を横に振ると、一歩はわざとらしく息を吐いた。手元で一度起きた決壊はどうすることもできず、ますます焦って大洪水になってしまう。 「なるほどね、だからさっきから落ち着かないわけだ」  俺からケトルを取り上げて、手早くドリッパーを脇に避ける。ドリップされたものを光にかざし、香りを嗅ぎ、「無駄にならなかったようでよかった」と一歩にしては珍しく辛口にコメントをした。  今日のコーヒー豆は、一歩が手ずから焙煎をしたものらしい。コーヒー好きなのは知っていたし、料理と同じくこだわりがあるのはわかっていたが、まさか焙煎にまで手を出すとは。俺たちの中では一番の常識人とはいえ、とことん突き詰める凝り性っぷりは結局似たり寄ったりだ。 「うーん、今日も良い匂いだね」  扉が開いた瞬間、一歩は「ほらね」と言うように俺に向かって肩をすくめた。居室に入ってきた芹沢は機嫌よく笑みを浮かべて俺たちのほうへと歩み寄る。 「いらっしゃると思って多めに淹れておきましたよ」 「さすが四之宮くん、気が利くなあ」  一歩は苦笑しながら芹沢の分のカップを用意している。抽出前に「たぶんもう一人来るから」と言っていたのはこのことだったらしい。しかもこの様子では初めてではないようだ。武と同じように、人懐こく、ちゃっかり久住研に居座る芹沢のことを邪険にできないのはわかる気がする。他の学生も同じように、さもそこに居るのが当たり前かのように挨拶をしていた。芹沢に対して塩対応なのは高梨くらいのものだ。  カップを受け取った芹沢は、ソファに座ってゆったりと長い脚を組んだ。 「それで朝木くん、論文投稿の推薦連絡が来たと思うけど、準備はしているかな?」 「ど、どうしてそれを……?」 「どうしてって、僕は編集側の人間だからねえ」  自分を指さして首を傾げている。学会の座長をやっていたということは運営に携わっているということだ。よく考えればすぐにわかることなのに、すっかり頭から抜けていた。 「特集号は投稿期限が早いんだから、すぐに準備しないとダメだよ。ま、推薦されたからって必ずしも採録されるわけじゃないけどね」 「やっぱりそう、ですよね……」 「おや、せっかくの機会なのに嬉しくないのかな?」 「そんなことはない、です、けど」 「その反応はもしかして……ビビッちゃってるのか」  図星を突かれてぐっと言葉に詰まる。隣で一歩がうんうんと頷いている。察しが良い人間が二人もいるなんていたたまれない。  学奨に落ちて、国際会議論文に落ちて。自分には「落ち癖」のようなものがついているんじゃないかと及び腰になっていた。気合いを入れていた国際会議論文の修正や追加実験も、本当にこれで良いのかと度々不安がよぎってしまう。  なんとなく久住には言いづらかったことを、いつの間にか芹沢にはすんなりと話していた。久住は親身にはなってくれるが、気質が天才肌だ。些末な相談をして「なんだそんなことで」と言われそうで少し怖いところがあった。一方で、芹沢には最初からダメなところしか見られていないからか、あるいはその人当たりの良さからか、久住よりもずっと話しやすい気がする。助教というのはより学生に近い存在だ。今も俺の話を聞きながら、馬鹿にすることなくおっとりと微笑んでいる。 「著名な先生でもリジェクトされることがあるんだ。科研費だって落とされる。落ちることを当然と思うのは良くないが、チャレンジしなければ受かるものも受からないよ」  芹沢はカップに口をつけて机に置いた。 「でもこうして相談してもらえるのは嬉しいよ。研究者っていうのはつい自分の頭の中ですべてを完結させて独りよがりになりがちだけど、いろんな人を巻き込んで物事を進めていく能力も必要だからね。そう考えると、ひとりで抱え込みがちだったきみは、以前よりも成長したと言えるんじゃないかな?」  芹沢は技術的なことでもなんでも、いつでも相談に乗るよと付け加えた。  単純に励まされたのかもしれないが、成長したと言われて少しだけ気持ちが落ち着いた。やっぱり芹沢は良い先生だ。高梨があれほど毛嫌いする理由がよくわからない。 「ありがとうございます。もしかして、この間おっしゃっていた『良い知らせ』って論文推薦のことだったんですか?」 「……ああ、すっかり忘れていた!」突然目を丸くしてぽんと手を叩いた。 「これとは別の話なんだ。その件で久住先生が呼んでいるから、今から行ってもらえる?」    「リーディングプログラムという、国が募集している博士課程の教育プログラムに、うちの大学が採択された」  一体何の話をしているのか見えてこない。「はあ」としか答えられない俺に向かって久住は鷹揚に笑みを浮かべた。 「我々の学科は修士課程二年、博士課程三年という構成になっているだろう。今回のプログラムは、それらを全部まとめた五年間の課程になっているんだ。つまりは、学部を卒業してこのプログラムに入った者は全員博士号を取得することになる。そして――」  もったいぶるようにひと息入れて、わずかに口の端を上げる。 「進学者は全員、学費免除の上、奨励金をもらうことができる。個人に研究費は出ないが、学奨と似たような制度だ」 「学奨と似ているということは……その奨励金は生活費に充てられるってことですか?」 「そのとおり」 「でも俺は学部生ではないですし……」  関係ない、と言いかけたところで久住が人差し指を立てて左右に振る。 「このプログラムは来年度から開始する。そして初年度に限り、学年を問わず学内からの編入者を募集するんだ」  思わず息を呑んだ。久住は肯定するようにうなずく。  ただし当然のことながら、編入試験が課されることを告げられた。募集要項は今日公開されるということだった。  仮に次の学奨に通ったとしても、来年度の一年間は学費と生活費を工面しなければいけない。それが目下の悩みの種でもあった。だが今聞いたプログラムに編入することができれば、心配事が一気に解消されることになる。 「ただ研究職を志すのであれば、学奨を狙うのはやめるべきではない。研究者として箔がつくというだけでなく、学奨に応募すること自体が将来的に科研費に応募する練習にもなるからな。だがそうなると、今からスケジュールが相当厳しいものになる。論文投稿推薦の話は来ているだろう。それは確実に通しておきたい。当面の間、今までやっていた国際会議論文の修正は後回しだ」  今はちょうど十二月に入ったばかり。修士論文の研究室内一次提出が十二月中、推薦を受けた論文の投稿期限は年明けすぐ、修士論文の本提出が一月末、修士論文の発表が二月初旬、編入試験は二月中旬。終わり次第、早急に国際会議論文の修正に着手する。  すらすらと唱えられた怒涛のスケジュールに目が回りそうになる。 「覚悟はできそうか?」  ニヤリと挑発的な表情で問いかけられる。俺はその目しっかりと見据えて頷いた。  * 「というわけだから、俺は今猛烈に忙しいんだよ!」  叫びながら、うなじに触れる温かな吐息にぞくりと背中が震えた。家に帰っても俺の陣地――つまりソファベッドの上で今後の計画を練り直していたのに、いつの間にか高梨が俺の背後に陣取っていた。 「編入試験に受かったら、今度こそおまえに今までの借りを返せる――んっあっ」  高梨は俺を抱え込むように抱きしめ、耳の後ろをぺろりと舐めた。 「おい、なにやってんだよ!」 「借りなら今返してください」 「あ、あんっ」 「声、可愛い。もっと出していいんですよ」  あろうことか、いきなりスウェットに手を突っ込んで乳首を摘まんできた。明確に俺の弱点を突いてくるなんて意地が悪すぎる。その間にも耳の端を甘噛みしてくる。おまけに尻にがっつり硬いものが当たっていた。耳たぶを吸われながら、脇腹がゆるりと撫でられる。下腹のあたりがきゅうっと切なく疼いた。 「ふあっ、あ、たかなし、やめ――やめろって!」 「ぐはっ」  みぞおちに打ち込んだ肘は見事にクリーンヒットした。力が緩んだ隙に素早く立ち上がり、身体をくの字に曲げて悶絶する高梨を見下ろす。 「おまえなあ、俺に受かってほしくないのかよ!」 「そんなつもりはない、ですけど……」 「じゃあなんで邪魔するんだ」 「……迅さんがまた芹沢先生の話ばかりするから嫉妬してるんです」 「嫉妬ぉ?」  確かに芹沢に相談に乗ってもらった話はしたが、嫉妬する要素なんてひとつもない。不機嫌そうに眉を寄せる高梨は少しだけ子どもっぽく見えた。自分でもそう思ったのか、高梨は目を覚まそうとするように小さく頭を振った。 「あの、俺も――」 「なんだよ」  思わず声が尖る。高梨は眉を下げて立ち上がった。 「……いえ、邪魔してすみませんでした。俺はもう風呂に入って寝ます」 「ああ。おやすみ」 「おやすみなさい」  ドアが閉まる音を聞いた途端、どっと疲れが出てきた。  「まったく、どうしてくれるんだよ……」  自分で止めたくせに、身体の奥でまだ熱がくすぶっている。静かになった部屋の端で、俺はひとり深々とため息をついた。
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