第二章 1. 計画は定期的に見直しましょう

1/1

260人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ

第二章 1. 計画は定期的に見直しましょう

『理系男子のための恋愛マニュアル ~初級編~』  第一章 恋愛をするということ 第一節 「恋愛」という感情の定義  恋愛――特定の相手に特別の愛情をいだき、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、相手に触れたい、触れられたい、肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと―― 「――ん、迅!」  はっと我に返り、顔を上げた。少し離れたところにいた一歩が、つかつかと俺に近づき足元にかがみこむ。電源タップを引っぱりだし、勢いよくコンセントを抜いた。  途端にあらゆる感覚が舞い戻ってくる。  低いざわめき、好奇の視線、それから――なにかが焼け焦げたような匂い。 「えっ……」  手元の基板が黒く溶けている。手に持っていたはんだごてを、一歩が慎重に、それでも素早く取り上げた。 「どうしたんだよ、迅。危ないじゃないか!」  小声で非難しながらてきぱきと片づけをする。周囲の学生たちはすっかり興味をなくし、自分たちの実験作業に戻っていく。俺はまだ夢の中にいるみたいに、それらをぼんやりと見ていた。 「……ごめん、修理するどころかダメにしてしまった」  学部生向けの実験の授業に使うアンプ基板やケーブル類は、俺たちTA――ティーチングアシスタントが部品を組み立てて使い回している。コネクタ部分などの何度も触る部分はどうしても脆くなってしまって、授業中にも頻繁に修理をしていた。むしろ俺は後輩を教えるよりも、次々と持ち込まれる品の修繕をしている時間の方が長いくらいだった。 「らしくないミスだね。なにかあったの?」   一歩が気遣うような表情で俺の顔をうかがう。  なにかあったのか?  むしろ、なにがあったのか俺が知りたい。 『俺がずっと好きなのは、迅さん……あなたなんだ』  好き? 俺を?  教室の端に視線をすべらせる。学生の質問に答えていた高梨がふと顔を上げた。首筋に鋭く電気が走ったように反射的に顔を伏せてしまう。どくどくと耳まで心臓になったみたいに激しく鼓動する。高梨がまだ俺のほうを見ているような気がした。 「朝木、体調が悪いなら今日はもう帰りなさい」  久住の穏やかな、しかし有無を言わせない声に、俺はただ頭を下げて部屋を出るしかなかった。  好きと一口にいっても、いろいろ種類があるじゃないか。  ベッドに寝転がって俺はひとりごちた。  家族でいえば弟のことだって好きだし、死んだじいちゃんのことも大好きだった。二人とも無条件で信頼できる家族だ。一歩や武のことだって好きだろう。長い付き合いだし、踏み込んでいいところと悪いところとを互いに理解できている。気心が知れた大切な友人。  でも高梨の()()は、きっと違う。さすがの俺でも、違うということだけはわかる。  そうは言っても、どういう感情を向けられているのか、あいつが何を考えているのかはさっぱり理解できなかった。だってあいつは俺の恋愛を応援してくれていたんじゃなかったのか。  だから裏切られたと思った。俺はひどく腹が立った……んだと思う。今となってはなんであんなにも感情的になっていたのか、よくわからなくなっていた。  のろのろと身体を起こし、足元に置いてあったボストンバッグを広げる。クローゼットから数少ない冬物の服を引っぱり出し、適当にはたいてバッグの中に突っ込んでいく。  狭いというのにがらんとした五畳間を見渡して、つくづく俺はなにも持っていないなと自虐的に笑った。  デスクと椅子、クローゼット、ベッド、エアコンは古いが備えつけのものだ。布団や枕、シーツも寮でレンタルできるようになっている。定期的にクリーニングできるようになっているし、自分のものを持つ必要がなかった。  普段研究に使う専門書やノートは研究室のデスクに置いてある。必要のない教科書はすでに後輩たちに譲ったし、小鍋などわずかばかりの調理器具も共同調理場にとりあえず置いておいた。そうすればきっと誰かが使ってくれるはずだ。  部屋の隅に置いておいた残りの本を持ち上げたとき、一枚の紙が音もなく足元に落ちた。  研究計画書――いや、『研究』の部分に二重線を引いて、上に『恋愛』と書いている。 『目的が不明瞭です』  高梨の不服そうな声がよみがえる。  計画書は、高梨に言われたことを余白にメモをしたり、赤線で修正を入れたりと、ごちゃごちゃしすぎてぱっと見ただけではよくわからないものになっている。パソコンで改めて清書しようと思っていたものの、なんとなくこの未完成な計画書に愛着が湧いて、そのままにしていた。 『そんなに北原詩織のことが好きなんですか?』  まさか……あのときには、高梨は俺のことを好き、だったのか?  頭の中でひとつひとつの出来事が嵐のように吹き荒れる。  カフェでのシミュレーションのとき、『相手を思いやっていれば自然にできること』と言っていなかったか。  急に意固地になって映画を一緒に観に行くと言い出したり、詩織とのデートを優先させたときの暗い表情だったり。そもそも俺の恋愛相談に乗ったこと自体も、それもこれも全部俺を好きだったからだとしたら? 「いやいやいや、わかりにくすぎるだろ!」  行動が完全にちぐはぐだ。恋愛初心者の俺じゃなくたって難解じゃないか。  突然自分に向けられた『好き』というベクトルに、すっかり混乱している。自分が誰かを好きになることは想像したことがあっても、誰かに好かれることなんて考えもしなかった。  大学でも有名人で、女子からも散々キャーキャー言われているのに色恋沙汰のひとつも聞かなかったのは、単純に研究狂いだからだと思っていた。それがまさか、男を好きだったとは誰も思うまい。 『実は僕、ゲイなんだよね』  高校時代によくつるんでいた友人の言葉を思い出す。カミングアウトをされたのはそれが初めてだった。俺を含めて三人が同時にこの話を聞いたが、本人が思いのほかあっさりと打ち明けたこともあって、関係が変わるようなことはまったくなかった。どちらかというと、ほかにももっといるよと言われたことのほうが驚いたが、男子しかいなければそういうこともあるか、という程度の感想だったのだ。  だから別に嫌悪感も、偏見もない――と思っていた。だが今の混乱具合からすると、所詮他人事だと考えていたのかもしれない。  それなら今、高梨に対してどう思っているのかと聞かれると、やっぱりよくわからない。というか、想像もできない。  気安く話すようになったのだって、ほんの二ヶ月くらい前からだ。そんな短い期間にも関わらず、ずいぶん親しくなっていたとは思う。一歩に「いつも一緒にいる」とからかわれたくらいだし。居心地がよくなければ、一緒にいるはずがない。  詩織とカフェに行ったときは、たったの数時間でどっと疲れた気がした。会話の内容やデートの予算まであれこれ頭を悩ませないといけなかった。  それに比べて、高梨といるのはまったく気楽なものだ。高梨に対しては年下だからか、同じ歳の一歩や武よりも多少のわがままや無茶振りも遠慮なく言えるところがあった。たぶんデートをすると言ったって、今さら綺麗な服を買う必要もなければ洒落たランチを食べる必要もない。 「って、なんで高梨とデートする前提なんだよ……」  ツッコミが虚しく部屋に響いた。顔が熱い。ぺらぺらの紙で扇いでも一向に冷めてはくれない。  捩じれた折り目のついた計画書を改めて眺める。  詩織とは一度会って以来、連絡を取っていないことを今になって思い出した。再び連絡をしようという気も今はまったく起きない。高梨が詩織と一緒にいるのを見たときですら、詩織を取られる、ということにはまったく考えが及んでいなかったことに気づく。  結局俺は、「恋愛」というものを体験してみたかっただけなのかもしれない。だが蓋を開けてみれば、体験どころか恋愛感情とは一体どういうものなのかすら理解できずに終わってしまった。これまで悩みに悩んだ時間を考えると、なんだか虚しくなってくる。  高梨のこともずいぶん身勝手に振り回してしまった。 『彼女のことを好きだって言ったから、今だけは諦めようと思ったんだ』  そう言ったときの傷ついたような表情を思い出すと、罪悪感で胸のあたりがひりつく。  もし俺が詩織のことを好きだと言わなかったら?  もし俺が高梨を頼らなかったら?  俺たちは友人ですらなかった。少なくとも以前のままだとしたら、ただの研究室の同僚として可もなく不可もなく――研究とは関係のない他愛のない会話をすることも、一緒に飯を食ったり、映画に行こうなんていうこともなかったはずだ。少し前まではそれが普通だった。  これからはどうなるのだろう。もしまた元に戻るとしたら……少しだけ寂しい。そう思うほどには、高梨のことをそれなりに好きだったのだ。でもこれは高梨が俺に向けている感情とは違う、はず。たぶん。  たらればばかりで、なにも解決しない。自分のことなのに、自分で答えを出せずにいるのが気持ち悪くてたまらなかった。これが数学なら、必ず明確な答えが得られるというのに。 「これももう、必要ないか」  手の中でくしゃりと丸める。部屋の反対側に置いてあるゴミ袋に向かって振りかぶった。  投げた紙のボールはゆっくりと宙に浮き、ゴミ袋と俺と中間でストンと落ちた。あまりに中途半端な結末がまるで俺自身を表しているみたいだ。  重い腰をあげて拾い上げる。急に捨てる気が削がれてしまった。白い紙に走る皺を指先で伸ばしていく。四つに折りたたんでボストンバッグの一番奥に突っ込んだ。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

260人が本棚に入れています
本棚に追加