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第二章 2. 準備不足による失敗は必ず避けなければいけません
「お疲れさーん。どうだった?」
まるで天気でも尋ねるように武が言った。後輩たちが口々に「お疲れ様でーす」と声をかけてくる。ロボサーの乱雑な部屋の真ん中で武は漫画を広げて座っていた。
「ま、ぼちぼちってとこだな」
「そんなんで受かるのかよ」
「内部推薦だしな。よっぽどのことがなければ落ちないはずだよ」
博士課程の推薦入試は、うちの学科の場合たったの面接三十分だけだ。最初の十五分で研究計画やこれまでの成果の発表、残りの十五分は質疑応答にあてられる。発表の最後に一分程度、どんな研究者になりたいか、なにを成し遂げたいかを盛り込む必要があるが、そもそもなにをしたいかを考えもせずにリスクばかりが大きい博士課程に行こうなんていう人間は、ただの馬鹿か頭のおかしな天才かのどっちかだ。つまるところ、俺のような凡人は普通に準備をしていれば大したことのない試験というわけだった。
そうはいっても、引退したというのに本能的にここに戻ってきたということは、それなりに疲れているのかもしれない。壊れて部品をはぎ取られたロボットの残骸や、床に転がった電子部品、壁に立てかけられた集合写真、積み上げられた漫画雑誌を見ると、帰ってきたという感じがしてホッとする。
特に今は、研究室に帰るのは少々気づまりだった。俺と同じく試験を終えた高梨がいるはずだから。
気まずく思っているのは俺だけかもしれない。数日経つというのに、俺はいまだに高梨とどう接したらいいのかわからなかった。高梨のほうは研究に集中しているときの人を寄せつけない空気をまとっているが、それは親しくなる前と同じなわけで、俺ばかりが気をもんでいるような気がしてならなかった。
あいつもあいつで、なにも言ってきやしないのだ。何事もなかったことにするつもりなのだろうか。親しくなったことも、なにもかも?
ほら、また高梨のことを考えている。
『こんな計画じゃなかった』
確か高梨はそんなことを言っていた。これもあいつの「計画」だったとしたら、俺はまんまと策にはまっていることになる。そんな嫌な考えを振り払うように頭を振った。
「武はなんでここにいるんだ?」
「なんでってそりゃ、ロボコンを控えた可愛い後輩たちに素晴らしいアドバイスをしてやろうと思ってさー」
「松浦さん、さっき森下教授から逃げてきたって言ってたじゃないですか」
しっかり後輩にツッコまれ、武は顔をしかめた。
「だってすでに二時間拘束されてたんだぜ!?」
「ああ……それはお疲れさん……」
森下教授は、ごくたまにスイッチが入ると途端に虫取りに夢中になる子どものように探求心を止めることができなくなるのだ。教授という人種にはよく見られる傾向でもある。ゼミのときなどは進行している久住准教授が遠慮なく森下を止めてくれるものの、マンツーマンで相談に行ったときそれが起こると、なかなか帰らせてもらえなくなるらしい。
「あーあ、日高先生がいなくなったら、余計に気軽に相談できる人がいなくなるよ」
「え、日高先生どっかいくの?」
「そ。どうやら近々、他の大学に移るっぽいんだよね。最近デスクの片づけしてるし」
若干影の薄い、森下研の助教の顔をぼんやりと思い浮かべる。授業もほとんど持っていないし、俺自身はあまり接点のない先生だ。
「じゃあ、もう次の助教を募集してるのか?」
「さあねえ……数年待ってもらって、おまえが卒業したときに助教になればいいんじゃねえの?」
「そんなに都合よくいくかよ」
博士課程を卒業したあとに大学教員を目指す場合、森下や久住のように、母校の研究室に教員として戻ってくるのが一番ラッキーなパターンだろう。教員同士で知っている顔も多いし、授業の方式や独自のルールなんかも新しく覚える必要がない。だが、いくら卒業生といっても採用に関して優遇されることはなく、たったの一枠をかけて応募してくる何百人もの人間に業績で勝たなければ、その座に就くことはできない。
ここでもし学奨に採用されたら、それだけで経歴に箔がつく。金だけの問題ではなく、将来のためにも重要なステップなのだ。
学奨、学奨、学奨――実際はもう、考えたくなんかなかった。例年の採用率は二十パーセントを切る。全国から応募した学生の五、六人に一人。俺はその中に選ばれることができるのだろうか。
「迅、そういえばそろそろ寮の退去日じゃなかったっけ?」
武の声でぐいと現実に引き戻された。
「あ……うん、そう」
「いつ?」
「今日」
「え? もうアパート決まったのか?」
「いいや」
「はあ?」
思いきり後ろに倒していた背もたれをバネに武が勢いよく身体を起こした。
「おまえ、どうするつもりなんだよ」
「どうするもこうするも……探したんだけど安くていい物件が見つからなくてさ」
寮は家賃一万三千円プラス電気代、風呂は一回百五十円。コインシャワーなら九分で百円。電気代も普通のアパートより安く、全部入れても月々二万円程度だった。似たような条件で探そうというほうが無理なのはわかっているが、敷金礼金などを含めると現実的に払える物件がなかった。
「今日の夜にはもう寮にはいれないってことか?」
「そうだな」
「そうだなって……荷物はどうなるんだよ。寝床は?」
「俺が全然モノ持ってないの知ってるだろ? 結構研究室に置いてるし、最低限の服と洗面用具くらいかな。ボストンバッグとリュックで足りたよ。とりあえず今日は実験室で寝させてもらうつもり」
学会などの締切が近くなると、実験室や学生居室の椅子を組み合わせて寝ることなんてしょっちゅうだ。今さら俺が夜中に寝転がっていても、誰もなにも言わない。それにエアコンも使い放題で水場もある。風呂はこっそり寮に入らせてもらえるように後輩に言ってあるし、当面は困らないはずだ。
「しばらくうちに泊まってもいいんだぞ?」
珍しく武が真剣な顔で言った。俺は首を横に振る。
「実家のマンションに邪魔するのはちょっと気が引ける」
以前遊びに行かせてもらった武の家は、そこそこ広さのあるワンフロアマンションだ。小さいとはいえ田舎の戸建て育ちの俺からすると、マンションは部屋と部屋が全て隣接していて家族の空間という感じがあまりにも強い。武のお母さんは俺のことを可愛がってくれたが、歓迎を想像できるだけに余計に申し訳なくなる。
「じゃあ一歩ん家は?」
「年頃の妹さんが三人もいる家に行けるかよ」
「そうかなあ、あいつらそんなに繊細じゃないぞ?」
一歩と武は幼稚園以来の幼馴染だから、妹たちのこともよく知っているらしい。俺は会ったことがないが、おっとりとした一歩と違って三人の妹たちは快活で賑やかと聞いている。
「とりあえず大丈夫だよ。一応今も物件探してるし、どうしようもなくなったら頼らせてもらうからさ」
俺の返答に納得いかない表情を浮かべながら、武はため息をついてうなずいた。
『好きです』
薄茶色の瞳に俺の呆けた顔が映っている。背中に硬い壁の冷たさを感じた。そっと窺うように大きな手が肩を掴んだ。振り払おうと思えばそうできるのに、俺は身動きができない。
かさついた指が頬を撫でた。高梨はひどく真剣な表情で俺の目を覗きこんでいる。
『迅さん――』
指先が唇に触れる。かすれた声で名前を呼ばれると急に頬が火照りだした。意識しだすと、高梨の形のいい唇から目が離せなくなってしまう。
何度も、何度も俺を呼ぶ声が聞こえる。
「――んさん、迅さん?」
突然刺すような白い光が目に入りこんできた。肩を揺さぶられ、身をよじろうとするが、身体が固く軋んで動けない。
額に手を当てて目を開く。高梨の顔が正面にあった。
「っ……!」
身体がびくりと跳ねた拍子に、高梨の手が離れた。
夢、だったのか。なんて夢を見てるんだ、俺は。
「どうしてこんなところで寝てるんですか」
早口に問い詰められるが、頭がまだ完全に起きていない。
「迅さん?」
顔を覗きこまれる。夢で見たよりも血色のいい唇が目の前で動いている。
「あ……いや、ちょっとまとめて実験したかったんだよ」
目を逸らしながら言い訳がましく答える。男の唇に目を奪われるなんてどうかしている。
高梨には寮の退去のことを話していなかった。年下だから気楽なところもある反面、意地のようなものもあった。机の下に置いてあるボストンバッグが見つからないように、必死に視線を背ける。
「そんなところで寝ていたら身体壊しますよ」
「大丈夫だって」
「うち、すぐ近くですけど来ますか? ソファベッドもあるし、ここよりもマシだと思うんですけど」
「な……なに言ってるんだよ。余計なこと考えなくていいって」
心配しているということは、声音からわかる。これまで通りの――高梨が俺のことを「好き」だとかなんとか言う直前の態度となんら変わらない。そのことにホッとしている自分に驚いていた。
高梨は目を伏せ、小さく息を吐いた。
「ちょっと待っててください」
俺がなにか言う前に高梨が部屋から出ていった。
言い方が悪かっただろうか。また傷つけてしまっただろうか。そう考えている自分にも苛立ちが募る。自意識過剰だ。あいつはそんな繊細なやつじゃない、はず。
静かな廊下から足早に歩く靴音が響いてきた。
「……せめてこれを使ってください。体調崩したら研究だってできないですから」
椅子に座っていた俺の膝に、薄い毛布がかけられた。柔軟剤だろうか。ふわりと優しい香りが立つ。
「あ……さんきゅ」
高梨はなぜか困ったように微笑む。心臓が奇妙に跳ねた。高梨が帰り、もう一度横になっても、なかなか眠りにつくことができなかった。
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