第二章 3. 試験環境を変えて現状を打破しましょう

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第二章 3. 試験環境を変えて現状を打破しましょう

「なんだってこんな時期に停電なんかするんだ」  久住が苛立ちを隠さずに言い放った。 「先生、もう毎年のことじゃないですか。それに一応三連休だし」 「研究者に休日があると思ってるのか?」  たまには休みましょうよ、と言う言葉を飲みこんだ。休日であろうが俺たちは研究室にいるし、先生にメールを送れば百パーセント返事がくる。研究生活とはそういうもんだ。  大学では毎年七月の終わり頃に点検のためだかなんだかで三日程度停電する。生物系や医療系のように二十四時間世話をしなければならないものがある研究室は非常用電源を使うが、ほかは例外なく研究がストップすることになる。このときばかりは俺も寮や外でのんびり過ごすようにしていた。 「梅雨も明けて蒸し暑いというのにサーバーも停止しないといけない。データが飛んだらどうしてくれるんだ。せめて冬に計画をすればいいものを、まったく大学は何を考えてるんだろうな」  久住の渋面に思わず苦笑してしまう。この愚痴を聞くのも三年目だが、今のところデータは一度も飛んでいない。 「ああそうだ。朝木、入試合格おめでとう。高梨もな」  久住が頭越しに呼びかけた。思わずびくりと身体が反応する。 「ありがとうございます」  凛と響く声が返ってくる。首の後ろに棒を入れたみたいに後ろを振り向くことができない。  いったい俺はいつまでこんな調子でいるんだろう。  よく考えてみろ。ちょっと恋愛相談をしただけじゃないか。それを信頼しただの、裏切られただの、そんな大層な話ではなかったはずだ。  それなのに、いまだに俺はこんなにも混乱していて、少し――怖いとすら思っている。感情をうまく制御できないなんて、そんな経験は初めてだ。  昨日の夜に借りた毛布は、直接返すことができなかった。畳んでデスクに置いたものを見て、高梨はどう思っただろう。  *  いつもは聞こえない虫の声が聞こえてくる。  窓を開けているせいだ。風はない。ただ熱と湿気をもった空気のかたまりが身体にのしかかってくる。  目を開いても、閉じても、あたりは完全に暗闇に飲みこまれていた。遠くの方で、小さな非常灯だけが頼りない光を灯している。  額に乗せたタオルはぬるくなってしまった。工学部の研究棟は全て停電しているが、断水はしていないためトイレや水道は使うことができた。タオルを冷たい水に浸しなおしたい。そう思うのに、身体を持ち上げる気にならない。  喉が渇いた。頭が重い。汗が止まらない――  慌ただしく扉が開く音が耳の中でこだまする。鋭い光がチカチカとまぶたの上を通り過ぎる。額の重みが軽くなった。 「大丈夫ですか? すごい汗だ……」  薄く目を開いても騒々しい音は遠ざかってしまう。時間をかけて上半身を起こしたとき、まばゆい光の中に高梨が立っているのがぼんやり見えた。 「起き上がれますか?」  早足で近づいてくる。ひんやりとした柔らかな感触が首筋にあてられた。 「熱中症だと思います。これ飲んでください」 「たかなし……?」 「いいから早く」  手渡されたペットボトルに口をつけた。甘くて、しょっぱい。一度飲みこむと、水分がぐんぐん身体に入ってくるのがわかった。ほとんど一気に半分以上を飲み干す。ぐるぐると回っていた世界が、ゆっくりと落ち着きを取り戻した。  首にあてられていたタオルが頬を通り、するりと額まで上ってくる。思わず目を閉じて「きもちいい」とつぶやく。ぴくりと手が止まるのと、俺がはっと息を止めるのがほとんど同時だった。 「あ……ごめん、自分でやる」  タオルの端を掴むと、高梨が手を離した。そのまま俺はごしごしと顔を拭く。そっと顔をあげても、高梨は黙って俺を見ていた。怒っている。それも、ものすごく。 「えーっと、高梨はどうしてここにいるんだ?」  我ながらまぬけな問いかけだ。高梨の眉がくいと動く。 「偶然松浦さんに聞いたんです。昨日も夜遅くまで実験していたみたいだったし、ただ忙しいのかと思っていたら寮が工事で迅さんはすでに退去しているって言うじゃないですか。しかもまだアパートも見つけていなくてここで寝泊まりしてるなんて……馬鹿ですか、あなたは」 「ば、馬鹿ってなんだよ!」 「馬鹿も馬鹿、大馬鹿ですよ! 現にこうやって熱中症にまでなりかけている。せめて停電期間中くらい松浦さんや四之宮さんに頼ればいいのに……俺だって――」  ぐっと言葉に詰まる高梨を、俺は呆然と見ていた。本当に心配、かけていたみたいだ。  あれ……俺ちょっと嬉しいと思ってる?  ありえない考えに頭を振った。 「なんとかなると思ったんだよ。昨日までエアコンつけっぱなしにしてたし、夜がこんなに暑いとも気づいてなくてさ……」 「それほど暑くなくても湿度が高いと熱中症になるんです!」 「そう、みたいだな……」  ぐうの音も出ない。高梨は深く息を吐き、俺を正面から見据えた。 「うちに来てください」  ぐいと身体が近づく。身を引こうにも、ベッド代わりの硬い椅子が軋むだけだ。 「松浦さんも四之宮さんも実家だから迅さんは行かないって言ったと聞きました。俺は一人暮らしです。迅さんはリビングのソファベッドを使えばいい。うちは1DKで俺には寝室があるから、何も遠慮する必要はないんです」 「いや、でも……」 「あと二日停電するんですよ? エアコンも全部止まっている。冷蔵庫だって使えない。こんな状況で今日みたいなことをあと二回も繰り返すつもりですか? ビジネスホテルにでも泊まればいいかもしれませんが、それならうちに来たほうがいい」  頼むから、そうつぶやいたように聞こえた。  理詰めでまくしたてているのに、懇願するような響きだった。どう応えたらいいのかわからずに茫然としてしまう。 「……やっぱり気持ち悪い、ですか」 「へ?」 「俺に近づきたくないのはわかります。でも家に来たからって迅さんが嫌がるようなことは絶対にしません。家はただの宿だと思って使ってもらったらいいんです。だから……」  薄茶色の瞳が目の前で不安げに揺れている。  「気持ち悪い、とは思ってないよ。でも……」頭の中で慎重に言葉を探す。 「どうしてそこまで?」  高梨の白い肌が一瞬ほんのりと赤く染まった。 「迅さんは道に迷っていた俺を救い出してくれた恩人なんです」 「恩人?」  道に迷う? そんなことあったか? 「それに言ったでしょう、ずっと好きだったんです」  不意打ちの言葉に息を呑んだ。まっすぐな視線も、ほころんだ表情も反則だ。俺の方まで耳の端が熱くなる。 「諦めが悪くてすみません。でも今このまま放っておくわけにはいかない。うちに来てくれますね?」  俺はまだ少しふらつく頭で、ただうなずいていた。  俺はそもそも「間取り」というものを理解していなかった。  寮はたったの5畳一間、その中にクローゼットや小さな洗面台が含まれている。実家は戸建てだが、あの間取りをなんと表現するのかはいまだにわからない。  1DKというのは、ひと部屋プラスダイニングキッチンというものらしい。つまり寝る場所と食べる場所が分かれている。高梨が「俺には寝室がある」と言ったのはこういうことだ。  しかし、このダイニングキッチン部分は寮の部屋の二倍以上はある。キッチンは対面式で、手前側は大きなソファとカフェテーブル、テレビが置かれているだけだ。きっと高梨の私物の類は寝室のほうにあるのだろう。  これが一人暮らしの学生の標準的な住まいであるはずがない。まったく贅沢すぎる。  高梨に連れられ、アパートに到着してすぐにシャワーを浴びるように言われた。汗臭いせいかと思ったが、エアコンで冷えたらいけないからという。高梨は俺の服が入ったボストンバッグを脱衣所に置き、ふかふかのタオルと一緒に俺を押し込んだ。シャワーもぬるめの湯にすること、という忠告付きで。  浴室も充分に広かった。俺ならいっそ浴室に住めるぞと思ったくらいだ。置かれていたボトルには見知ったラベルがなく、どれがシャンプーかボディソープなのかぱっと見ではわからなかった。とりあえず手持ちの入浴セットを引っぱりだして事なきを得た。  シャワーを浴び終えると、部屋はエアコンが効いてすっかり快適な空間になっていた。すると今度はドライヤーできちんと髪を乾かせと指示が飛んでくる。 「熱中症になりかけた上に風邪を引かせるわけにはいかないんです」  不機嫌な顔とは裏腹に冷えたスポーツドリンクを押しつけられる。入れ替わるように高梨はシャワーを浴びに行った。  癖のある髪は少し伸びてしまっていて、温風をあててもなかなか乾いてくれず、思ったよりも時間がかかってしまう。そもそもドライヤーなんて普段は使いもしない。火傷しそうになったりと悪戦苦闘したせいか、終わった頃にはすっかりくたびれていた。  身体はすっきりとして、部屋も涼しい。スポーツドリンクは喉に心地よい。壁にかけられた時計を見ると、十二時を回っていた。いつもならまだ起きているような時間だが、まぶたがどんどん重くなってくる。  ふわりと柔らかな感触が腕をかすめた。 「そのまま寝ていいですよ」  ささやきが耳に触れる。薄茶色の瞳と視線がかち合った。 「うわあっ! おまっ、なんっ……!」  濡れた髪がいつもよりも暗く光っている。が、そんなことはどうでもいい! 「服を着ろ、服を!」 「ああ……すみません。いつもの癖で持ってくるのを忘れてしまって。今すぐ着てきます」  鍛えられた上半身をさらしているくせに、急に焦ったように立ち上がった。見た目と行動にギャップがありすぎる。  部屋を出た高梨が、今度はちゃんとTシャツを着てもう一度戻ってきた。 「布団はこれを使ってください」  肩のあたりまで薄手の毛布が引き上げられる。俺の目の上にかかっていた前髪を一房つまみ、そっと横に払う。慎重な、それでいて親密さを感じさせる手つきに俺は動くこともできず、完全にされるがままになっていた。 「高梨、なにして……」  はっと目が覚めたように高梨は手を止めた。取り繕うように咳払いをして立ち上がる。 「明日もどうせ大学は停電なんですから、ゆっくり休んでください。それじゃ……おやすみなさい」  早口でそう言うと、立ち上がってすたすたと歩き、振り返ることもなく電気を消して出て行く。たっぷりと時間が経ったあとでようやく、暗闇の中で俺はひとり、何年かぶりの「おやすみ」をつぶやいた。
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