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第二章 4. 大胆な発想で新たな道を切り開きましょう
き・ま・ず・い。
カップの中の黒い液体に映った間抜けな顔が、深いため息でかき消された。
早朝のファミレスは閑散としている。窓から見える駅の周辺も、休日のせいかひと気がなかった。隅の席で爺さんが大げさなくしゃみをする。
高梨には学会の原稿を仕上げたいからと言ってアパートを出てきた。家でやればいいと言われたが、集中したいからと言ったらそれ以上は引き留められなかった。
ポケットを上からなぞると固い感触に触れる。中には鈴のストラップがついた合鍵が入っている。
視界の端でチカチカと光が点滅した。よく見ると着信通知が来ていた。一歩からだ。
『もしもし、迅?』
「一歩、どうした?」
『どうしたもなにも、昨日停電だったのにまた研究室に泊まったんでしょう? てっきりタケちゃんちに行ったのかと思ってたのに……大丈夫だった?』
「ああ、それが……」
俺が熱中症になりかけたことは省略して、昨日の出来事を説明した。偶然高梨が来て家に泊まらせてもらったが、全ては冷房が止まったせいで、暑すぎて致し方なく、という具合に。
『へえ……高梨の家、ねえ。良かったじゃん』
「良かったって、どういう意味だよ」
『だって二人、喧嘩してたでしょ?』
「へ?」
声が思いきり裏返った。遠くから爺さんがこっちを見ている。
『休憩するときにはいっつも一緒にいたのに、急に目も合わせなくなってさ。何かあったのかなとは思ってたけど、聞ける雰囲気でもなかったし』
喧嘩、ではない。俺が一方的にあいつを避けていただけだ。無言をどう受け取ったのか、一歩はくすりと笑った。
『でも家に泊まったってことは仲直りしたんだよね。それならしばらく高梨の家にいるってこと?』
「いや、それは……」
*
『しばらくうちに住んでみたらどうですか』
朝方、物音を立てないように洗面所へ行き、びしょ濡れの顔を上げたとき、鏡越しに高梨が言った。
『次に住む場所が決まるまで、うちにいたらいいと思いませんか。もともと一人で住むには広いと思っていたんです。家賃も要りません。家には寝に帰るくらいで、それほど散らかることもないから家事も適当に分担すればいいですし。ああ、研究室で作っているときみたいに食費を割り勘にして作るっていうのも、一人分を作るよりも安いですよね。どうですか、結構良い条件だと思うんですけど』
*
『高梨は太っ腹だねえ』
くすくすと笑う声がスピーカーを通して聞こえてくる。おかしくてたまらないという表情までありありと目に浮かんだ。
「でもさ、話がうますぎると思わないか? あんなに広い部屋を借りたら一体いくらになるのか、考えるだけでも恐ろしいよ。かといって半額払うなんて口が裂けても言えないし」
『僕だって迅が家に来たとしても家賃を払えなんて言わないよ。でもまあ、ずーっと高梨の家に住むっていうなら話は別かもしれないけど』
「ず、ずっとなわけないだろ!」
『でも高梨の言うとおり、少なくとも次の家が決まるまでは泊まらせてもらったほうがいいんじゃない? うちやタケちゃんちには来る気がないんでしょう?』
当面寝る場所が必要なのは確かだ。停電が終わったあとだって、いつまでも研究室で寝泊まりするわけにはいかない。寮の風呂を借りるのだって、長期間となると後輩たちに迷惑がかかる。
「そうかもしれないけど……」
『それとも、高梨と一緒に住んだら何か困ることでもあるの?』
澄ましたような声で一歩が言った。
困ること?
具体的に困ることがあるとは言い難い。ただ単純に気まずい、それだけだ。
二回も「好き」なんて言われてしまった。あれは本気のやつだ。そんな相手の家に居座るなんて、図々しすぎないだろうか。
高梨に告白されたことを一歩に相談してみようか。いや、それは他人のプライバシーを勝手に晒すことになってしまう。一歩は口が固いし信用できるが、きっと同じ研究室内で変に気を遣わせてしまうことになる。
『家賃や光熱費のことを気にしているなら、現金以外にも代わりにできることはいくらでもあるんじゃない?』
「代わりにできること?」
『そう。高梨がやってほしいと思うことをしてあげればいいんだよ』
具体的にどういうことかを聞こうとしたとき、遠くから一歩の名前を呼ぶ明るい声が届いた。
『あ、ごめん。今から妹たちと出かけるんだ。とにかく高梨が提案してるんだから、あまり気にせず甘えちゃっていいと思うよ!』
じゃあまた、と慌ただしく告げて、一歩は電話を切った。
「高梨がやってほしいことってなんだ……?」
結局原稿なんか一文字も進まなかった。だらだらとドリンクバーを飲んでいたら、さすがに店員の視線がちくちくと地味に突き刺さって出てきてしまった。
他に行くあてもなく高梨の家に戻ったが、運良く高梨は外出しているようだった。家主のいない部屋にひとりでいるのは妙な気分だ。合鍵だけ渡して出かけるなんて、俺のことを信頼しすぎじゃないか?
ソファから改めて見渡しても、本当にただ広いだけの部屋だ。すっきり、というよりは、俺の寮の部屋のように何もないと言った方がふさわしい。
大して家事もしないと言っていた。この様子じゃ、当然金にも困っていない。飛び級をするくらい優秀な男だ。勉強や研究を手伝う必要もないだろう。何もかも手に入れているような男が俺にやってほしいことなんて――
『ずっと好きだったんです』
ひゅっと喉から変な音が出た。この期に及んで思い出すことじゃないだろう!
枕代わりにしているボストンバッグを握りしめる。放り投げてしまいたいのをこらえて抱え上げたとき、底のほうで硬い角が手に当たった。
「あれ、何か入れてたっけ……?」
洗面用具も出してあるし、中には服やタオルくらいしか入っていないはずだ。ファスナーを開けて中を探ってみる。
「うわ、すっかり忘れてた……」
薄い水色の表紙に並ぶ『恋愛マニュアル』の文字を指で突く。寮の退去のときも、これは研究室に置いておけないと思ってバッグに突っ込んだのだった。
「いくら『理系男子のための』って言っても、高梨が何を考えているかなんて書いてないしな……」
そうは言いながらも、おもむろに表紙を開いた。一番最初の章が目に入る。
「なになに、恋愛感情とは……『二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感を分かち合いたい、相手に触れたい、触れられたい、肉体的な一体感も得たい』!?」
いやいやいや、ちょっと待て。
思わず頭を抱えた。『肉体的な一体感』って、つまり――
がちゃりと鍵が開く音に身体が跳ねた。慌てて本を鞄の中に押し込む。
「あれ、帰ってたんですね」
高梨がスーパーの袋を手にキッチンへ入っていった。買い物をしてきたらしい。冷蔵庫に物を入れている背中を凝視してしまう。
恋愛対象になるっていうのは……それは相手が男であっても同じなのか?
「外でなにか食べてきました?」
「ふえっ?」
ひっくり返った声に、高梨が怪訝な顔で振り返る。
「あれ……顔が赤いですね。やっぱり風邪引いたんじゃないですか」
つかつかと歩み寄り、俺の前にかがみこんだ。眉根を寄せて額に手を当てる。冷たいものを持っていたのか、高梨の手のひらは予期したよりもひんやりとしていた。
「熱はないようですね」
眉間の皺がふっとほどける。安心したような表情に、腹の底がきゅっと震えたような気がした。こんなにも俺のことを気にかけてくれるのは、やっぱり俺のことが好きだから?
「あのさ、高梨って……」
「なんですか」
言い淀むと、促すように目を覗き込まれる。
「女よりも男に触れたいって思ったりするの?」
薄茶色の瞳がすっと細められた。
「男なら誰でもいいってわけじゃないです」
「それってつまり、その」
人さし指をゆっくりと自分に向けてみる。高梨はますます表情をこわばらせる。
「もしかして今のも下心があって触ったんじゃないかって言いたいんですか?」
「違う! ただちょっと気になったんだよ」
高梨が俺に求めているものは一体なんなのか。恋愛感情のその先に俺がいるのか。
「今触れたいと思うのは……迅さんだけです」
言葉ではそう言いながら、高梨は俺から距離を取った。
「でも合意がないのにそんなことするはずが――」
「合意、する」
高梨が息を止めた。大きく目を見開いている。
「どういう意味で言っているのかわかってますか?」
「高梨は俺に触れたいんだろ? だから好きにしていいよ」
「やっぱり熱があるんじゃ……」
「ないって!」
おそるおそるといったように、もう一度高梨がにじり寄ってくる。
「本当にいいんですか?」
うなずくと、こくりと喉仏が動くのが見えた。大きな手に肩をやさしく掴まれる。覗きこまれた瞳に自分の顔が映っているのが見える。俺は重要なことを思い出した。
「それで代わりと言っちゃなんだけど、もう少しだけ泊まらせてもらっていいかな」
近づいてきた顔がぴたりと止まった。
「……はい?」
「いや、本当は家賃を払いたいんだけど、この家の家賃なんか半額だって払えそうにもないし、家事だって大して手伝いにならなさそうだろ? 代わりに俺になにができるかなーって思って――高梨?」
肩を掴んでいる手がぶるぶると震えている。周りの空気がマイナス二十度くらいになったみたいに冷え冷えとした気配が俺を包んだ。ぷつん、となにかが切れた音さえ聞こえた気がした。もちろん俺ではない。
すっくと立ち上がった高梨が冷ややかな目で俺を見下ろす。
「すっっっかり忘れていました……迅さんが恋愛偏差値ゼロどころかマイナス振り切っているFランクの馬鹿だということを」
「ば、馬鹿って言うな!」
「馬鹿以外になんて呼べばいいんです? 底抜けの愚か者とでも言いますか? いいや、そんな人の言葉を信じた俺のほうが哀れなほど愚かだ!」
額に拳をあて、深く息を吐き出した。ずいぶんな言われようだ。それほど俺は高梨を怒らせてしまったらしい。
「自分の言ったことわかってるんですか? 迅さんは今、自分の身体を金で売るのとほとんど同じことをしたんですよ!」
「え、いや……そうなるのか?」
「しかも俺の好意を利用して取引をもちかけたんです。それがどれほど酷いことか、わかってるんですか」
身体を金で売る、好意を盾に取引と言葉にされると、思っていたのと違う印象になる。鋭い視線に俺は息を呑んだ。
「ごめん、あんまり深く考えてなかったんだよ。なにもせずに世話になるのは嫌だったんだ。俺にできることはなにか考えたけど思いつかなくて、それで高梨は俺に触れたいって言ったし――」
「触れたいですよ。触れたいし抱きしめたいしキスしたいしセックスしたいですよ当然!」
「セッ……!?」
「俺が触れたいっていうのはそういう意味です。ああ、なんでこんな人のことを好きになったのか……」
具体的に言葉が出ると頭の中で急速に現実味を帯びてくる。高梨と、俺が?
大柄な男と、ひょろひょろだがそれほど背丈が低いわけでもない男が絡みあう図を想像しようとしても俺の脳みそでは処理不可能だった。やっぱり俺が馬鹿だというのは正しい。熱中症の後遺症でも残っていたのかもしれない。
「そうだよな、うん。俺が悪かった。この件はもう忘れて――」
「いいえ。家賃の代わりをいただくことにします」
「へ?」
高梨が腕を組んで顎をつんと上に向けた。目がものすごく怒っている。
「二度とこんなことを考えたいとは、思わせないようにしますから」
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