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第二章 6. 良い結果が出たときは素直に受け入れましょう
「なあ高梨ー、今日の晩飯どうする?」
デスクの向こう側に声をかけると、高梨が棚の向こう側から首を伸ばした。
「冷蔵庫にニンジンとキャベツが残ってたと思いますけど」
「そっか、じゃあ麺だけ買って焼きそばでも作るかー」
「わかりました。買って帰りましょう」
そのまま立ち上がって時計を見る。
「俺、今日は十九時くらいには上がれると思います」
「それじゃ俺もそうするよ」
うなずいた高梨はパソコンを持って部屋を出ていった。
「じーんー」
カラカラカラ……とキャスターが転がる音が近づいてきた。
「なんだよ一歩、ニヤニヤして」
「んー? んふふふ」
「気持ち悪いな、言いたいことがあるなら言えよ」
一歩は俺をひとしきり眺めたあと、腕を組んで口を開いた。
「すっかり馴染んだねえ、同棲生活」
「同棲!?」
「あ、ごめんごめん。居候生活ね」
くすくすと笑っている。間違いなく確信犯だ。
「でもさ、とりあえず二週間のお試しだとか言ってなかったっけ? もうそろそろじゃないの?」
一歩の言うとおり、高梨の家に居候を始めて明日で二週間が経とうとしていた。いつまでいてもいいと高梨には言われたものの、まずは二週間だけ住まわせてほしいと言っている。次の家の目処が立つのがいつになるのかわからない状態で一度でも期限を決めなければ、ずるずると甘え続けることになってしまいそうだと思ったからだ。
「どうするかは、一応考えてるよ」
俺の返答に、一歩は不安げに眉をひそめた。
「お、蒸し麺が半額になってる。ラッキー」
「俺三玉食べるんで、もう一袋入れてください」
「ほんとによく食うな、おまえは」
成長期でもないくせにまったく太っていないのは、日々の筋トレの賜物だということを俺は知ってしまっている。
高梨が押すカートのカゴに麺を入れる。そのまま肉のコーナーに行こうとする男の袖を引っ張った。
「肉は買わないぞ?」
「え、でも俺が全部食べた気がするんですけど……」
「いいや、豚こまが冷凍庫に残ってる。それに今日は安くないからだめだ」
高梨が二度、三度と目をしばたいた。それから笑みを浮かべる。とろりとバターが溶けたみたいな、そんな笑顔だ。
「なんでニヤけてんだよ」
「いえ、迅さんがしっかり管理してくれてありがたいなって」
「なっ……!」
唖然としている俺を置いて、鼻歌でも歌い出しそうな足取りでカートを進めていく。
「そういえば結局何円だったんだよ」
玄関の鍵を開けながら問いかけても、高梨はのらりくらりとかわそうとする。
「千円くらいじゃないですか?」
「そんなはずがあるか。あとでレシート見せろよ」
「はいはい」
「はい、は一回!」
声を立てて笑わないものの、高梨が上機嫌に笑んでいるのがわかった。手早く冷蔵庫に買ったものを片づけると、お願いしますと言ってリビングを出て行った。
俺が調理している間に、高梨はシャワーを浴びる。火を使うと汗をかくから、俺は飯を食ったあとで問題ない。これは居候を開始して三日で決まった。
今までほとんど使っていなかったであろう高機能の電子レンジで、豚こまをしっかり解凍する。本当は豚バラが良いらしいが、高いから却下だ。その間にニンジンの皮をむき、短冊状に切っていく。入学してすぐは、節約のためと思ってそれなりに料理はしていた。だが寮の設備もおんぼろで、共用の冷蔵庫は名前を書いていようがいつの間にか材料がなくなってしまう。材料はまとめ買いほど安いが使い切る前に傷んでしまうし、一人分だけ買うのはコスパが悪すぎる。結局学食の一番安いうどんを食べるか、寮や研究室ではインスタント麺で済ますことが増えていた。研究室で作るときは一歩のサポートに回るくらいだったから、自分で最初から最後まで料理をするのは久しぶりだった。
レンジから肉を取り出して塩コショウを振り、フライパンを火にかける。料理は科学実験だ。同じ材料を入れても、調味料や火の加減でまったく違う味になる。高梨の家に来て再び料理をするようになって、研究者魂をくすぐるものだと改めて気づいた。
たかが焼きそば、されど焼きそば。ネットでレシピを調べると、麺の前処理や材料を入れる順番がいろいろと違う。今回は麺を香ばしく焼く方法を試してみることにした。あれほど研究オタクな高梨は、こういったことには食指が動かないらしい。俺が料理担当になるのは互いに全く異論がなかった。
麺は軽く水洗いをして水気を切り、酒としょうゆをもみこんだ後でフライパンで焼き目をつけていく。香ばしく焼けたら皿にあけて、次は肉だ。肉が焼ける匂いを嗅ぐだけで幸せになる。
「肉が焼ける匂いって幸せになりますよね」
「ファッ!」
突然耳の後ろから低い声が響いた。心を読まれたみたいで心臓に悪い。
「も、もう終わったのか」
「はい。うわ、すでに旨そう」
相変わらず背中越しにフライパンを覗きこんでいる。熱いシャワーでも浴びたのか、薄いTシャツの上から高梨の熱が伝わってくる。焼ける肉に負けないくらいメンソールのシャンプーが強烈に香る、気がする。
「た、高梨……包丁使うから危ない」
まだ玉ねぎとキャベツを切っていないことを指で示した。なぜかたっぷり五秒ほど待って高梨が離れていった。
二週間前のアレ以来、家賃を請求されたことは一度もない。
アレの翌朝、早く目覚めてしまった俺はとにかく何事もなかったようにしようと考えた。ひとつ屋根の下で一緒に暮らすわけだし、いちいち意識をしていたら気まずいだけだ。その考えが伝わったのか、高梨も特になにも言ってくることはなかった。
それどころか、一ミリだって触れていない。あのときはあんなにしつこく触れてきたのに。
頭を振って野菜を手早く切ることに集中する。肉が固くなりすぎる前に野菜を順に投入して、火が通ったら麺、ソースを入れる。最後にもやしを入れてさっと混ぜたら完成だ。
「高梨、できたぞ」
盛りつけ終えたタイミングで高梨がひょいと皿を持ち上げた。俺は引き出しの中から箸を取り出す。キッチンの中にあるモノの場所も大体覚えてしまった。
「いただきます」
二人で声をそろえるのは、いまだにこそばゆい。向かい合って座るダイニングテーブルは、四日目に突然届いたものだ。「もともと買おうと思っていたから」と言われたが、本当なのやら。
「麺がパリパリだ」
少し驚いたように高梨が言った。それこそ今回のレシピで狙っていたところだから、コメントされるとちょっと嬉しい。気持ちいいほど勢いよく食べているのに、下品にならないのが不思議だ。俺の視線を感じたのか、高梨が顔を上げる。
「迅さん、もっと食べたほうがいいですよ」
「これでも食うようになったほうなんだよ」
野菜を口に運ぶ。もやしがしゃきしゃきしていて良い感じだ。食べるのが自分だけではないと思うと、それなりに野菜も取り入れないといけない気がして買うようになっていた。幸い高梨はよく食べるし、二人の数日分となると傷む間もなく使い切ることができる。結果的に一食はカップ麺よりは多少高いかもしれないが、明らかに体調が良くなっているのを実感していた。
「おいしいですね」
高梨が微笑む。俺にはすぐに髪を乾かせとうるさいくせに、湿った髪をかきあげて再び焼きそばを頬張る。
一人じゃない飯は、こんなにもおいしい。
「二週間」
無意識に俺は口にしていた。高梨の手がぴたりと止まる。
「……明日で二週間だ。一応、お試しさせてくれって言っていた期間」
高梨が箸を置き、しっかりと咀嚼して飲みこむまで待った。
「来週中に、追加の奨学金を申請するよ。振り込まれるのは来月以降になると思うから、それまで居させてもらってもいいか」
「追加の奨学金?」
「ああ。利子有りだけど五万円を追加できる。それだけあればアパートの家賃もなんとかなると思う」
本当は契約時の金が必要だが、貯金がゼロというわけではないし、交渉するしかない。ここ最近、個人経営の不動産屋に足繁く通っているおかげで担当の人ともすっかり顔馴染みになって、物件によってはなんとかなるかもしれないという話もしてもらっていた。
「ひとつ聞いていいですか」
「なんだ?」
真剣な表情で高梨が居ずまいを正した。
「仮に――追加の奨学金を博士課程卒業までもらったとしたら、修了時の返済額はいくらになるんですか?」
意表をつく問いかけに俺は言葉を詰まらせた。急いで頭の中で計算してみる。
学部四年間プラス今までの一年半の間に借りた額。修士の残り半年と博士の三年間の追加額――諦めて端末を取り出し、電卓アプリを開く。
「……一千万円、超えるな」
目の前で必要な金を工面することに必死で、返済の総額を考えていなかった。一千万円。まともな職に就けたとしても、返済に何年かかるのだろう。
「もちろん学奨に通れば、博士の三年間は借りずに済むことになります。でも……今から半年追加するだけでも、かなり負担になるはずです。もちろん良い物件が見つかればそこに移ればいいですが、来月までなんて無理は言わずにうちに居たらいいんじゃないですか。もちろん迅さんが嫌じゃなければ、ですけど」
嫌なはずがない。こんなに俺にとってありがたい提案はあるだろうか。高梨はまっすぐに俺を見つめている。
「でも、高梨にとっては損しかないだろ。あまり長い間甘えるわけにもいかないし……」
「そんなことありませんよ」そう言いながら目元が和らいだ。
「迅さんが来てから、こうやってまともな食事を食べるようになりました。今までは外食とかコンビニ食が多かったし、野菜をわざわざ買ったりもしなかったんです。おかげで体調も良い気がしますよ。なんだかんだこまめに掃除してもらってたりするし。それに――」
「それに?」
「家で一緒にご飯を食べるともっとおいしい。一人より、二人で生活するほうが楽しいって思ってるんです」
さっきから俺が思っていたことをそのまま言葉にされてしまった。俺ばかり得してしまっているような気がしていたのに、高梨も同じように感じている?
「すみません、これじゃプロポーズみたいですね」
「プ、ロ……!?」
高梨の白い頬がわずかに朱く染まっている。つられて顔に血がのぼっていくのを感じた。
「とにかくよく考えてください。特に奨学金のことは慎重になったほうがいい。結果的に借りることにしたとしても、急がなくていいですから」
「うん……ありがとう」
するりと感謝の気持ちが口をついて出てきた。高梨が嬉しそうに微笑む。
まただ。また、心臓が跳ねて苦しくなってくる。
「も、もうしばらく世話になるとしたらさ……やっぱり家賃のことが気になるんだけど」
なかなか目を合わせられずに上目遣いに高梨の様子を窺う。高梨は一度視線を落とし、小さく息を吐いた。
「俺としては本当に必要ないんです。光熱費もそれほど変わっていないと思いますし。食材費も大体交互に出していますよね。でも何もしないことで迅さんが居づらいっていうのであれば……月千円とか、五千円とか、好きな額をカンパしてもらうっていうのでどうですか。たとえば夏や冬はリビングのエアコン代が気になるから多めに入れる、とか」
「え……それだけ?」
「それすら不要だと思っていますけど、今のままだと一方的に施されていると思うのかもしれないって考えたんです。だから迅さんが良いと思うようにしてもらえたらいいです。もちろん、できる範囲で構わないですから」
この話は終わりとばかりに再び箸を手に取った。
「まだ残ってますよ。食べましょう」
「う、うん」
箸でつまんだ焼きそばが、伸びてぶつりと切れた。少し冷めてしまっているのに、高梨はおいしそうに食べている。
家賃の支払い――俺は一体何を考えていた?
エアコンが充分に効いているのに、身体がカッと火照ってくる。
高梨に気づかれないように、皿を抱えて残りを一気にかきこんだ。
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