260人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ
第二章 7. 古いデータも見直すと意外な価値があるかもしれません
「実験の作業手順書は作っておいたほうがいい。使いたいときに装着が空いているとは限らないから、一度の試験でパラメーターをなるべくたくさん振れるように効率的な手順を組み立てるんだ。作る過程で頭の中も整理されるしな」
高梨の言葉に後輩が応える声が聞こえてくる。少し首を伸ばすと、二人でパソコンを覗き込んでいるのが見えた。高梨が自分の手順書を見せているのかもしれない。見たことはないが、俺の雑なプランと違ってきっと綿密なものになっているに違いない。
「朝木さん?」
「あ、悪い。どこまで話したっけ?」
白河が俺の視線の先を追いかける。
「高梨さんって、意外と優しいですよね」
なぜかこっそりと打ち明けるように話し始める。
「最初はすごく怖かったんですけど、特に最近は、朝木さんと二人で話しているところを見て声をかけやすくなったっていうか……雰囲気が柔らかくなった気がするねって同期と話してたんです。おかげで俺たちも質問しやすくなって助かってます」
「へえ……高梨が、ねえ」
「あ、もちろん俺は朝木さんに一番頼ってますけど! これからもお願いします!」
慌ててフォローをしながらてへへと笑う白河を小突いてやった。卒研のテーマが俺の研究に近いから、結局今までよく面倒を見てやっている。素直で要領もいいし、教えがいがある後輩だ。
がたがたと立ち上がる音に顔を上げると、後輩を連れて出て行こうとする高梨と目が合った。
一瞬だけ、ふっと目元を緩める。
隣の白河はノートを見ていた。高梨はどうやら俺に笑いかけたらしい。居候も続いて慣れてきたとはいえ、やっぱり不意打ちは心臓に悪い。
「お、迅いたいたー」
高梨たちと入れ替わるように武が居室に入ってきた。
「なんか顔赤いけど、どうしたんだ?」
「え? いやなんでもないけど」
誤魔化すように白河のほうを見ると、武に遠慮をしたのか質問は終わったと立ち上がる。空いた席に我が物顔で武が座った。
「なんか用か?」
「用がなきゃ来ちゃダメっていうの? もうっ迅ったらアタシと仕事どっちが大切なの!」
「仕事だな。帰れ帰れ」
「冷たいなーもう。せっかく面白いもん持ってきてやったのに」
武はデスクの上に重ねたノートやファイルを勝手に押しのけてノートパソコンを開く。動画サイトが画面に映されていた。
「なんだ、これ?」
「いいから見てみろって」
『鳥人間コンテスト、タイムトライアル部門。次のチームは――』
テレビでよく見かけるアナウンサーがTシャツ姿で風にあおられている。背後に広がるのは晴れ渡る青い空、少し波打つ海――ではなく、広大な湖だ。
「しばらくサイトから消えてたんだけど、なぜか復活してたんだよね。だからまた消される前におまえに見せておこうと思ってさ。見てなかっただろ?」
武がにやりと笑った。
『代表の高梨龍成さんにお越しいただきました。今日は風が少し強く吹いていますが、自信のほどはいかがでしょう』
カメラが動く。今よりも浅く日焼けした肌、短めの髪の高梨が画面の中心に据えられた。冷静を装っているが、興奮と緊張で目元が少しだけこわばっているように見える。
『風の条件はどのチームも平等です。機体はこれまでで一番抵抗を減らすように改良設計していますが、その分横風に対するコントロールが難しく――』
「他のチームはパイロットが喋るんだけど、高梨は飛ぶ前に集中力を削がれるからダメだって言ったらしいぜ」
武はそう言いながら動画を先に進める。
別のリポーターとともにボートに乗り込んだ高梨は、飛び立った人力飛行機とともに水面を猛スピードで走り出した。
『下がってきてるぞ! 上げろ!』
メガホンを使って怒鳴るように叫ぶ高梨の声が、空駆けるパイロットまで伝わっているのが動画ではわかる。パイロットはその指示を受けて、必死の形相でペダルを漕ぎ続ける。
『右旋回! 焦るな! 集中していけ!』
多くのチームが墜落する難関のUターンをクリアし、機体はわずかに高度とスピードを下げてスタート地点へと戻っていく。
『行けっ! 駆け抜けろ! おまえなら行ける! 行け行け行けっ!』
高梨の声が指示から鼓舞へと変わっていく。かすれた声で叫ぶ高梨の横顔が少し涙が浮かんでいるように見えた。
チーム初の帰還。現時点での一位。喜びに膝から崩れ落ちるチームメイト、大学の応援団の熱狂が映し出される。夏の熱気が画面を通して伝わってくるように感じた。
パイロットが水中からボートへと引きずり上げられる。長距離にわたる全力疾走のためか、言葉もなくぐったりとしていた。慌ただしく酸素ボンベを当てがわれる。横に付き添う高梨が晴れやかな笑顔でパイロットの肩を抱いた。
リポーターが一瞬迷いを見せたあと、再び高梨にマイクを向けた。
『現時点で一位、しかもチーム新記録となりましたね』
『はい。本当によくがんばってくれました』
いまだに動くことができないパイロットの背を労わるようになでた。なぜかその姿を見て胸の内にもやもやとしたものが広がる。
『今の気持ちを誰に伝えたいですか?』
『そうですね……まずは完璧な機体を作ってくれたチームのみんなに感謝したいです。もちろん全力を尽くしてくれたパイロットも。それから――』
高梨はひと呼吸止めて、カメラに向き直る。
『なにも持っていなかった俺に「可能性は無限にある」って教えてくれた人に、今の俺を見てもらいたいです』
『もしかして、高梨さんにとって大切な人?』
『……ええ』
日焼けの上に少しだけ赤色を乗せて高梨がはにかんだ。
「大切な人、だってよー。高梨ってこんなにアツい男だったんだよなあ。意外だろ?」
武の声がぼんやりとかすんでくる。画面の中で、陸に上がった高梨はチームメイトに出迎えられ、輪の中心で満開の笑顔を咲かせている。
『工学部でやりたいことなんて、なにもないんです』
桜の木の下でひとり、輪から外れて座っている新入生が気になって話しかけた。毎年恒例の新入生歓迎会は、入学式の翌日夜に敷地内の池の周りで開催される。夜風に花びらが散り、薄っぺらな紙コップの中にひらりと迷い込む。
『工学部に入ったのは親への反発です。父親の会社を継ぎたいと言ったのに、父はそれを認めてくれなかった。悔しくて、真逆のことをやって成功してやろうと思ったのに父はなにひとつ関心を示さない。周りのやつらの希望に満ちた顔を見ていると、俺は結局目標もやりたいこともないのにここで何してるんだろうって思って……』
彼は楽しげにはしゃいでいる新入生たちを遠目に眺めていた。
『今はなにもないかもしれないよ? でもなにもないって、実はなんでもあるのと同じことなんじゃないかなあ』
俺は彼の隣に座って、ジュースの上に浮く花びらをくるくると回した。
『最初からやりたいことが凝り固まっているよりも、かえって無限に可能性があるのかもしれない。工学って、俺たちが生きていく上で必要な全てに関わっているんだ。きみがそれまでやりたかったこととも、絶対につながっている。これだけは断言できる』
俺が空を指さすと、彼はつられて上を見上げた。
『それにほら、今は星がはっきり見えるけど、昼間は星なんてまったく見えないだろ? 今見えているもの以外にも実際には無数に存在している。ないんじゃなくて、どうやって見るか、なにを知りたいかで見え方が変わるだけだ』
彼はにわかに表情を曇らせた。俺は慌てて付け加える。
『今は想像もできないかもしれないけど、心配しなくていいよ。もしこれから、ふと惹かれるものがあったら、何でもいいから、その瞬間に手を出してみるといい。不思議なものだけど、自分が求めているとき、応えてくれるものが自然に見えてくるものだからさ。さっきも言った通り、きみの可能性は無限にあるんだ。これからが楽しみだね』
ようやく俺のほうを向いた彼は、驚いたように目を見開いていた。
『おーい迅、こっち来いよ! ロボサーの勧誘するぞ!』
武の呼びかけに手を上げる。立ち上がろうとすると、『迅、さん?』と遠慮がちに声をかけられた。
『ありがとうございました。俺、がんばってやりたいことを探してみます』
十八歳の高梨が、ぎこちなく笑みを浮かべていた。
「ただいま」
「おかえりなさい。遅かったですね」
ダイニングテーブルでパソコン作業をしていた高梨が顔を上げた。
白河の言うとおり、高梨は確かに変わったな、とは思う。
なぜか以前は後輩どころか先輩も声をかけるのをためらうような雰囲気をあえて出しているようなところがあった。ゼミの発表や議論以外ではほとんど声を聞くこともなかったくらいだ。
俺が無理やり話しかけるようになって、他の人たちとも会話を交わすようになって、だんだんと人の輪の中心にいるのを見かけることが増えてきた。でも今日の映像を見れば、きっとそれが高梨の本来の姿なのだろう。
「もう飯は食ったか?」
「はい。冷蔵庫に入ってた炒め物の残りとご飯をもらいました。迅さんの分もまだ残ってますよ。先に食べますか?」
パソコンを閉じようとする高梨を留めて先にシャワーを浴びると告げた。夜になっても気温がほとんど下がらなくなってきている。歩いて帰るだけで汗だくだった。
「……寒くないか?」
「え、そんなことないと思うんですけど」
「設定温度は?」
「二十二度です」
「いや低いだろ!」
シャワーあがりのまだ少し湿った身体に冷風が吹きつける。
「こんなにガンガンにエアコンつけ続けたら光熱費も馬鹿にならないだろ。ちょっと温度上げろ。おまえまさか自分の部屋もこんな状態じゃないだろうな?」
「だって俺は暑いんです」
ここは引かないつもりらしい。家主は高梨だし、俺がこれ以上とやかく言う権利はない。筋肉質だから代謝が良すぎるのだろうか。
高梨が部屋を出て行く。ソファに座ってぶるりと身体を震わせていると、再びドアが開いた。
「これ着ていてください」
肩からふわりと暖かさに包まれる。厚手のカーディガンを持ってきたらしい。促されるまま袖に腕を通す。冬にいつも高梨が着ているものだと気づいた。クリーニングにでも出したのか、馴染みのある匂いがしない。
立ったままの高梨を見上げる。
新入生のときに見せていた不安や葛藤は、今の高梨には少しも残っていない。
不思議な気分だった。五年も前に交わした短い会話を、高梨はずっと覚えていたのだ。覚えているだけじゃない。もしかしたら俺の言葉を抱えて、今の場所までたどり着いたのかもしれない。
『ずっと好きだった』
まさか最初から、なんて言わないよな?
「迅さん?」
薄茶色の瞳が俺を見つめている。急に体温が上がったような気がした。
「か……髪乾かしてくる!」
呆気にとられている高梨の脇をすり抜けて、洗面所に駆け込んだ。
「どうしたんだよ、俺……」
心臓のあたりをぎゅっと掴む。鏡の前にいる男の顔は、目も当てられないほど真っ赤に染まっていた。
最初のコメントを投稿しよう!