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第二章 8. 想定外の結果、なんてものは言い訳にすぎません
「おーい、朝木! こっちこっち!」
喧騒と熱気の中から大きく手を振る姿が見える。厨房から流れ出る煙が天井のあたりに渦巻き、油と酒の匂いが顔の周りにまとわりついた。狭い通路を縫って歩き、机を四つ合わせた集団に近づいていく。
「宮原さん、俺、今本当に金がないんですけど……」
「俺が出すから大丈夫だって言っただろ。来てくれて嬉しいよ」
手招きを続ける宮原が隣の席を指した。宮原は二学年上の卒業生だ。促されるままに椅子を引く。
「あれっ……迅、今日は来ないって言ってなかったっけ?」
斜め向かい側にいた武が不思議そうな顔で俺を見上げた。
「そのつもりだったんだけど、宮原さんが奢るから来いって言ってくれたんだよ」
「へえ、宮原さんが、ねえ……」
武は珍しく言葉を濁し、俺の隣に座る宮原に視線を向けた。
「皆さんお集まりでしょうか! そろそろ始めさせていただきたいと思いますので、グラスを準備してくださーい!」
幹事のひと声で周囲が慌ただしく動き出した。周りに座る後輩たちが瓶ビールを手に腰を浮かせる。俺も瓶をひとつ受け取って宮原のほうへと向けた。
「じゃあセンパイ、今日はご馳走になります!」
「ああ、遠慮なく飲めよ」
ビールを注いでいるうちにあたりが急に静かになる。幹事――もといロボサーの現代表がもったいぶったように咳払いをした。
「えー皆さん、今年もロボコンお疲れ様でした。書類選考通過、ビデオ選考落選という悔しい結果になってしまいましたが、学園祭に向けて引き続きがんばっていきましょう。今日のところは、ひとまず思い切り飲むぞー!」
あちこちで乾杯の声が上がる。グラスをぶつけ合い、ひと口含んだ。じわりと苦味が広がる。酒を飲むのは久しぶり――と考えたところで、あの合コン以来だと気がついた。自分の中でも消化しづらい記憶を打ち消すように、もうひと口呷る。歩いて汗をかいたからか、冷たさと喉を通る泡の感覚がいつも以上に心地いい。ついそのまま一杯飲み切ってしまった。
「お、良い飲みっぷりだな」
宮原が嬉しそうに追加のビールを注ぐ。礼を言ってそのまま口をつけた。ビールってこんなに美味しかったかと思うくらい、するすると飲めてしまう。気づくとグラスの底に白い泡が残っているだけだ。隣の宮原のグラスも空いている。瓶を取ろうとして手を伸ばすが、逆に取り上げられてしまった。向けられた注ぎ口に合わせてグラスを傾ける。宮原は自分のグラスには手酌で注ぎ、なぜかもう一度グラスを合わせた。
「迅、ちょっとペース早くないか?」
「そうか? 武のほうが飲んでるだろ」
「いやまあ、そうなんだけど……」
「どうしたんだよ、おまえ今日なんか変だな?」
いつもならもっとずけずけと物を言うのに、どうも今日はキレが悪い。
「まあまあ、朝木も飲み会は久しぶりなんだろ? たまにはいいじゃないか。それに松浦、ソミーの飲み会はこんなもんじゃないぞ?」
「そうっすね……」
そういえば宮原の就職先は武と同じソミーだった。武が配属予定の部署とは違うが、今もリクルーターをやっているはずだ。卒業したOBがサークルの飲み会に来るのは、ただ飲みたいだけというほかにも、優秀な後輩を会社に勧誘するためという目的があったりもする。まさに武は就活中に面接の準備や資料の確認で散々世話になったと言っていたから、頭が上がらない存在だろう。宮原は俺たちがロボサーに入部したときの代表で、俺もよく面倒をみてもらっていた。
「朝木は結局就職せずに進学するんだな」
「はい。一応この間入試も終わって合格しました」
「それはおめでとう。でもやっぱり俺としては、おまえにもソミーに来てほしかったんだけどなあ」
「どうしてですか?」
宮原が卒業したあとにも、何度か同じことを言われている。毎回軽い調子だから流していたが、今日はいつもよりしみじみとした様子だったので気になった。
「朝木は昔から素直で熱心だし、面白いひらめきも多い。うちの開発にいたら助かるなーって思ってたんだよ。博士に行くと、どうしても頭が固くなるって言われるからもったいない気もしていてね」
宮原の言いたいことはよく理解できた。博士が一般企業で就職難とされている原因のひとつだ。こだわりが強すぎる、専門性が少しでもずれると役に立たない。企業側がそう認識しているから、門戸すら開かれていない場合も多い。
「でも俺はやっぱり博士号を取りたいんです。今やっている研究が楽しいし、だいぶ形にもなってきている。もっと深く極めたいと思っています。頭は固くならないようにしたいですが……」
グラスに残ったビールで唇を湿らせる。
「ソミーはめったに博士を採用しないですよね。それに企業は研究にも制約が多すぎるから、今も選択肢にはないです」
「そうはっきりフラれると辛いな。仕方ない、応援してるよ」
宮原は苦笑を浮かべた。刺身の大皿を引き寄せ、もっと食えと促される。
「相変わらず細いな。ちゃんと食べてるのか?」
まじまじと視線をめぐらされて思わず身を縮める。細すぎるとは高梨にもよく言われていた。俺はそれほど少食ではないのに、肉にならないせいか毎日小言とともにおかずを上乗せしてくるのだ。
「一時期よりはずっと食べてますよ」
「ん? にやにやして、彼女にでも作ってもらってるのか。妬けるねえ」
「ち、違いますよ! 自分で作ってるんです!」
彼女なはずがない。当然、高梨は彼氏でもない。
頬杖をつく宮原の視線を避けるように、もう一度ビールを呷った。
「朝木、大丈夫か?」
呼びかける声が耳鳴りのように聞こえる。立ち上がろうとしても足に力が入らない。
「とりあえず水飲めよ」
目の前に出されたグラスを眺めても、口をつける気にならなかった。とにかく眠い。頭がほわほわとして、視界がふるえている。
「これじゃ帰れないよなあ」
誰かが背中をゆっくりなでている。背中、腰、脇腹に手がまわって、胸のあたりを指がかすめる。
ぞわりと嫌悪感が首筋に走った。
なんだこれ。気持ち悪い。
振り払おうとした手をつかまれる。再び背中に戻ってきた手の感触が、肩、二の腕をなぞっている。
「やめ……」
身体をよじろうとしたとき、ふと肩が軽くなった。なにか揉めるような声がぼんやりと聞こえてくる。
「迅さん」
耳元で響く低い声に俺は顔をあげた。途端にぐるりと世界が回る。
二の腕を痛いくらいにつかまれた。身体が上に引き上げられる。もたれかかったものは良い匂いがした。馴染んだ匂い。ほっとする匂い。
腰を抱かれても、さっきみたいな嫌な感じはしない。心地よい声がすぐ隣で聞こえる。なんだか急におかしくなって、勝手に笑いがこみあげてくる。高梨は黙ってしまった。
そうだ、今俺を引きずっているのは高梨だ。
高梨も災難だなあ。そう考えるとますます笑えてくる。笑いながら、俺は高梨にしがみついている。
「着きましたよ」
発作みたいに笑いながら、俺はようやく靴を脱いだ。もう一度、ほとんど抱きかかえられるようにして歩かされた。まぶしい明かりの中を進んでいく。
ソファ、俺のベッドが目の前にある。
「うわっ……ちょっと、迅さん!」
身を投げるように倒れ込んだ。ふかふかと気持ちいい。でもなんだか暑かった。Tシャツを脱ぎたくて身体を動かすと、隣にいた高梨が勢いよく身体を起こした。
「なにしてるんですか」
「暑い」
Tシャツなんて簡単に脱げる。丸めた布をぽいと放り投げた。ベルトは厄介だ。手がもつれてうまく取れない。
「クーラーつけますから、待っててください」
離れていこうとする高梨の腕を思いきり引っ張った。バランスを崩したのに、俺にのしかからないように片腕で突っ張っている。それがまたおかしくて、ついケラケラと笑ってしまう。腹が痛いほど笑っても、高梨はにこりともしない。
「なあ、高梨」怪訝な表情をした男の首に腕をかけた。
「俺のこと、もしかして一年のときから好きだった?」
目の前の薄茶色の瞳がぱっと大きくなった気がした。
「まさか……俺のこと覚えてたんですか」
「いや、覚えてたっていうか、思い出したっていうか」
もう一度身体を起こそうとするのを、さらに力をこめて引き留める。
「チューしなくていいのかよ」
「は?」
「だーかーらー。そんなにずーっと好きだったんだろ。今がチャンスじゃないのか?」
高梨の力が抜けたのがわかった。俺は両腕をかけたまま、逸らされた瞳をのぞきこむ。
「……今そんなことするわけないでしょう。したくもないです」
「なんでだよ。俺のこと好きなんじゃないのかよ」
「好きですよ。好きだからできないんです」
「意味わかんねーよ。この前のアレだって――」
高梨が俺の腕をつかんで無理矢理引き剥がした。最初から力づくでやれば振りほどけたのだ。
「いくら迅さんが良いって言ったからって、あんなことするんじゃなかったって後悔しているんです」
「なんで?」
「なんでって、それは……」
煮え切らない。好きだけどできない? 段々とイライラしてきた。身体は相変わらず暑くて、熱い。
「なんで我慢する必要あるんだよ。俺はもう一回ヤりたいのに」
まだベルトは外れてくれない。手を少し下げて、ズボンの上からなでてみる。今まで自分でやることもほとんどなかったのに、高梨の手や舌の感覚を思い出すだけで息が上がってくる。血液がぐっと下の腹に集まって、じんじんと疼きだす。
「暑い。脱がせてくれ」
ファスナーにかけようとした手を取られた。
「……頼むから、やめてください」
言葉とは裏腹に、高梨の瞳の奥には欲がくすぶっているのが見えた。ぞくぞくと内側から甘ったるい震えが湧き上がる。
指先を伸ばして固く結ばれた唇に触れる。高梨の唇は赤くしっとりとしていた。柔らかな感触をなぞっていく。こいつとキスしたら、絶対にキモチイイ。キス、してみたい。もっと触れてみたい。
はあっと息を吐いた途端、唇に触れていた手もシーツに縫い留められた。
そういえば、研究室に寝泊まりしていたときにもキスされる夢を見た。いや、結局夢でも現実でも一度もキスなんてしていない。
夢? 現実?
ぐるぐると頭の中で混乱が渦巻く。
今、俺はどっちにいる?
高梨の瞳が、唇が、近づいてきて――ぷつりと暗闇に飲みこまれた。
「ううう……」
低い呻き声に目を開いた。途端に頭の中で誰かがトンカチを振り回しているような激痛が走る。目だけであたりを見渡しても、誰もいない。自分の呻き声で目が覚めたらしい。
「俺は……なにを……?」
こめかみを押さえて息を吐く。ロボサーの打ち上げに参加して、とにかくビールが美味しかったのは覚えている。先輩の宮原と話していたはずだ。でも段々声が聞こえにくくなっていって、身体が重くなって、それで――
頭の中で記憶の映像が目まぐるしく切り替わる。
はっと自分の身体を見下ろした。Tシャツは――着ている。脱いだはずなのに。今着ているのは昨日とは違うTシャツだ。ベルトは外されているが、ズボンはしっかりと穿いていた。
俺を見下ろす高梨の熱のこもった視線を思い出す。そして俺自身の熱も鮮明に。
『チューしなくていいのかよ』『俺はもう一回ヤりたいのに』
声にならない叫びが喉の奥ではじけた。
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