第二章 9. 失敗の原因は想像よりも根深いものです

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第二章 9. 失敗の原因は想像よりも根深いものです

 ボストンバッグに洗面用具と最低限の着替え。小学生の家出セットのような有様だというのに、行き先が研究室というのはあまりにも芸がなさすぎる。  土曜日の午前十時。いつもなら高梨はとっくに来ている時間だ。いつ顔を合わせることになるかとビクビクしているのに、一向に姿をあらわさない。  そんな状態だから、ガチャリと扉が開いたときには大げさではなく椅子から飛び上がった。   「おー迅、いたいた」 「なんだ、武かよ……」  ホッとしたはずなのに、どこか別のことを期待していたような気がして頭を振った。武はそんな俺に構うことなく気だるげにソファに倒れ込む。 「昨日は無事に帰れたか?」 「ああ、一応な」  無事に、ではなかったが。信じられない失態を犯したことは武にだって言えない。 「昨日はおまえもだいぶ酔ってたし、高梨が来てくれてよかったよ」  そのひと言で、ふとおかしい点に気づいた。 「……そういえば、ロボサーの飲み会にどうして高梨が来たんだ?」 「そりゃ、俺が呼んだからな」 「どういうことだ?」 「いやー……」  武はまた言葉を渋る。そういえば昨日もこんな風にもごもごと要領を得ない話し方をしていた。武らしくない。 「おまえ、宮原さんにロックオンされてたし」 「ロックオン?」 「一年のときから気に入られてたの、おまえ気づいてなかっただろ。昨日は宮原さんも妙に気合が入ってたっていうか……ありゃ完全にお持ち帰りする気満々だったぞ」 「なに言ってんだよ。俺は男だぞ? 宮原さんがまさか……」  お持ち帰りだって?  背中、肩、二の腕の上を滑る手のひらの感触を思い出す。またぞわりと悪寒が走った。 「マジか?」 「マジだ」  うわあ……と頭を抱える俺を、武は同情いっぱいの目で眺めている。 「おまえ、最近()()()()()を引き寄せるような雰囲気出してたからなあ」 「ああいう人って……一体どんな雰囲気だよ……」  武は視線を宙にさまよわせた。 「具体的にどうって言いづらいんだけどさ。男子高でもいたんだよな。急に上級生とかがストーカーみたになっちゃうような、一部マニアにウケる感じの雰囲気っていうか」 「わからん。全然わからん!」 「ま、宮原さんも無理にどうこうしようって感じではなかったし、次に会っても今までと変わらないと思うから気にすんな」  ひらひらと振られた手をはたき落とす気力も湧かない。 「しかし高梨はカッコよかったぜ。宮原さんを押しのけて、おまえのこと颯爽と抱え上げてさ。ありゃモテるわー」 「でも、わざわざ高梨を呼ばなくたって……」 「高梨の家に居候してるんだから迎えに来てもらっても変じゃないだろ? それに俺は宮原さんに頭が上がらないんだ。春からは同じ会社だし、邪魔したなんてバレたらさすがに気まずいしさ」  武の言うことは正しい。サークル内の人間じゃ大先輩に物申すことも難しいし、おそらく一番穏便に事が運ぶように図ったのだ。もし高梨が来なかったら、俺は宮原と……いや、これ以上想像するのは耐えられない。  だが相手が違っただけで、家に帰って()()()()()はほとんど同じだったんじゃないか?  思い出したくもないのに、昨夜の光景が頭の裏側に焼きついている。白いうなじに腕をかけたときの、高梨の揺れる瞳もはっきりと覚えてしまっている。挙げ句の果てにキ……キスをそそのかすなんて……!  酒ですべてを忘れることができていればどれほど幸せだったか。よりによってこんなにも鮮明に記憶が残っているなんて、なんの罰ゲームだろう。顔がじわじわと火照るのを必死に抑えこむ。目の前の武にバレたら、なにを言われるかわかったもんじゃない。   「なになに、なんの話?」  再び扉が開いた音に慌てて振り返る。今度は一歩が入ってきた。一応休日なのに揃いも揃って暇人だ。 「俺が迅を助けてやったって話よ。いやー俺ってば気が利くなあ」  武からひと通りの話を聞いたあとで、一歩はにやりと笑った。 「確かに、タケちゃんにしてはグッジョブだね」 「俺にしてはってどういうことだよ」  ふふふ、とごまかすように一歩は口元を覆う。 「あれ……迅、もしかして帰省でもするの?」  いきなりの話題転換に頭がついていかず、首をかしげる。 「だって、あの荷物。一応もうお盆だけど……珍しいね。何年ぶり?」  一歩の視線はデスクの上に置かれたボストンバッグに向けられていた。まったく目ざとい男だ。まさか高梨と顔を合わせられなくて家を飛び出したとは言えるはずがない。 「えーっと、四年前のじいちゃんの法事以来、かな」 「そっか、気をつけてね。久しぶりにお墓参りできたらいいね」  咄嗟に話を合わせて誤魔化したのに、一歩はただ微笑むだけで、それ以上深く訊ねることはしなかった。一歩も武も、実家と俺の関係を知っているからだ。  大学最寄りから鈍行で約三時間。帰ろうと思えば帰れるし、時間がかかるから頻繁には帰れないという言い訳もできなくはない。山間の、果樹園に囲まれた小さな町。それが俺の故郷だ。  電車を降りてバスに乗ろうにも、やってくるのは四十分に一本。歩くにはすでに暑すぎる午後二時。クーラーもない駅の待合所で麦茶を買って、定刻より早く来たバスに乗り込む。乗客は俺のほかに誰もいない。当然ICカードなど使えるはずもなく、整理券を慌てて取る。  流れる町並みは四年前と大して変わっていない。大学周辺にあるものよりも、やたらと大きなスーパーやドラッグストアが大通り沿いに並ぶ。店舗の二倍以上の広さがある駐車場にも車が所狭しと並んでいて、今が帰省シーズンだということを実感させた。川沿いの道に出ると、辺りは民家、そして畑や田んぼののどかな風景が広がる。夏の強い陽光の下で、青い稲が上へ上へと力強く指先を伸ばしている。  山へと入っていくと、ぶどう棚がぽつぽつと見え始める。大きな手のひらのような葉の下で、白い袋が提灯のように連なる。中でたっぷりと甘い汁を蓄えているに違いない。俺自身は、地元の果物なんて何年も食べてはいないわけだけれど。  山の中腹にある墓場の駐車場にも、やはりそれなりに車が入っていた。出入りする人の姿を見て、俺は墓参りに必要なものを何ひとつ持ってきていないことに気がつく。一歩が何気なく言った「墓参り」という言葉に背中を押されるようにして、ふらりと来てしまったのだ。だが手に持っているのは家出セットただひとつなんて、良い大人がみっともない。そう、四年前と違って俺はすでに成人しているのに。  仕方なくペットボトルのお茶を飲み干し、水道の水を入れて目的地へと向かう。山肌に沿って作られた墓地の中で、朝木家の墓は上のほうに置かれていた。首の後ろをじりじりと焼かれながら、俺は無心で坂を上がる。 「じいちゃん、久しぶり」  墓は綺麗にしてあったが、ごく最近誰かが来たというわけではなさそうだった。ほうきも持っていないから、とりあえず周囲の落ち葉や砂を手で払い、ボトルの水を墓石の頭からかけてやる。  手を合わせて考えるのは、「ごめん」のひと言だった。  一番可愛がってくれて、誰よりも俺の味方でいてくれた祖父の墓参りが四年ぶりだなんて、とんだ不孝者だ。それだけじゃない。今年行われた七回忌には、学会発表と被っているから出席しなかった。もっと早く気づくべきだったのに、俺は自分のことばかりに気がとられて、すっかり忘れていたのだ。  だが今日ですら、一歩に言われなければ帰っていなかったかもしれない。俺は言い訳のように、何年分かの「ごめん」を繰り返してしまう。 「迅」  砂を踏む音に振り返り、立ち上がった。 「(しゅん)――」  背の高い弟の後ろから小柄な人影が見えた瞬間、思わず口をつぐんだ。 「母さん」 「迅、来てたの」  (しきみ)をたずさえた母は、俺がいることを気にも留めずに墓石の前に進んでいく。古いものを取り除き、ほうきで細かく塵を払う。母の作業を、俺は弟と並んで黙ったまま眺めていた。 「ほら、お線香持ってきてないんでしょう?」  まとめて火をつけた線香を受け取る。葉擦れの音、鳥のさえずり、虫の声が、三人の間に流れていく。  顔を上げると、たなびく細い煙の向こう側から瞬がこちらを見て微笑んでいた。 「久しぶりだね。元気そうで安心したよ」 「ああ……瞬も変わりないな」  俺よりも少し背の高い弟は日焼けした顔をほころばせた。そうして笑うと一緒に遊んでいた小さい頃を思い出す。 「今日は家に――」 「迅、あなたそろそろ卒業でしょう。どこに就職するの?」  瞬の言葉を遮る母の声は鋭く、緊張をはらんでいた。瞬が息を呑み、不安げな表情で俺をうかがう。 「……進学するから、就職はしない。この間入試も終えて合格したんだ。あと三年は大学にいる」 「まだそんなことを言っているの!?」  ひとつに結わえた髪が揺れる。白いものが見えた気がした。歳を取った、という感慨は甲高い声でかき消される。 「四年間だって充分すぎるほど長かったじゃない。それなのに二年も追加しないと就職できないっていうのが、そもそもおかしな話でしょう! それをさらに三年ですって? 働きたくなくて逃げているだけじゃない!」 「母さん、何度も言ってるけど働きたくないわけじゃないんだよ。母さんの思っている仕事の形とは違うかもしれないけど、研究者だって立派な職業だ。研究者になるには、まだ勉強しないといけないことがたくさんある。それだけなんだよ」  噛んで含めるように言っても意味がないことはわかっていた。それでもここで無視をするのも、感情的になるのも得策ではない。 「それで生活していける保証がどこにあるっていうの? 工業高校を出てそのまま就職すれば、なにも困ることはなかったじゃない。お義父さんがあなたにお金なんか出さなければ、今ごろ――」 「母さん!」  瞬が母の肩を掴んでいた。 「暑いだろうから先に車に戻っていたら? クーラーつけて待っててよ。僕は片づけをしたらすぐに行くから」  ポケットから鍵を取り出し、手を取って握らせる。母は俺をじっと見つめたあと、踵を返して去って行った。 「……ごめん」  瞬が何を言おうとしているのかはわかっていた。駅でバスを待っている間、瞬にだけ墓参りに行くと連絡をしていたのだ。それがまさか、母を連れてくるとは思っていなかった。瞬としては、久しぶりに母親に顔を見せたほうが良いと考えたのだろう。墓の前でまで口論になるとは予想もしていなかったに違いない。 「いいや。俺の方こそ、いつも家のこと任せきりでごめん。おまえとじいちゃんがいなかったら、俺は大学にも行けていなかった。今好きなことをできているのは瞬のおかげだよ」 「僕も好きにしているだけだから気にしないでってば」  会うたびに同じ会話を交わしているせいか、瞬も半ば呆れたように笑っている。俺と同じ工業高校を卒業して、地元近くの大手企業に就職した瞬は、まさに母の理想通りの人生を歩んでいる。自分で車を買って、家にお金を入れて――そう遠くない未来には結婚して孫の顔も見せることになるのだろう。その人生は本当に瞬が望んだものなのか、俺は一度も訊くことができていない。 「そんなことより、研究のほうはどう? 楽しい?」  うまくいっているか、ではなく楽しいかと訊ねるのが瞬らしいと思った。祖父がいつも俺たち兄弟に「楽しいか?」と声をかけていたのを、無意識に真似ているのだと思っている。 「おかげで楽しくやってるよ。全部が順調とはいかないけど、そんなに簡単ならそもそも研究にならないしな」 「そっか。もしなにか困ったことがあったら……いつでも言ってよ。俺は迅のこと応援してるから」 「ありがとう。気持ちだけ受け取っておく」  困ったこと、という言葉の真意はわかっている。だがこれ以上、二歳年下の弟に頼らざるをえなくなるなら、夢なんて諦めたほうがいい。 「母さんが待ってる。もう行ったほうがいい」 「迅は? 今日は家には……やっぱり来ない?」  首を横に振ると、少し寂しそうに息を吐いた。駅まで送ると言われたが、それも断ると渋々といったように駐車場へと足を向けた。何度も振り返って手を振る弟に、俺は笑って応えた。  バスが来るまでしばらく時間がある。どこか日陰で休めるところがないか辺りを見渡したとき、ポケットの中で端末が震えた。 『もしもし、迅? 今もしかして実家か?』 「武? どうしたんだ急に」  いつも以上の早口に、嫌な予感が走った。そういうときに限って、予感というものは的中する。 『さっき偶然聞いたんだけど――高梨が交通事故に遭ったらしい』
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