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第二章 10. エラーを吐き続ける装置はいくら叩いても直りません
病院の匂いというのは、幼い頃を思い出すせいか人を感傷的にさせる気がする。診察時間はとっくに終えている。一階の総合受付の待合室は明かりが抑えられ、人影もまばらだ。薄暗いエレベーターホールの中で、自動販売機の照明だけがぽっかりと浮かんでいるように見える。どこからか子どもの激しい泣き声が響き、ますます気持ちが陰鬱としてくる。
武と一歩は慣れた様子で奥まで進み、エレベーターのボタンを押した。
「何号室か知ってるのか?」
「ああ。確か三○六号室だって」
一体どこで誰からその情報を入手したのか、急ぐ必要はないのか。そもそも面会なんてできる状態なのか。訊きたいことは山ほどあったが、口にするのが怖かった。地元からすぐに電車に飛び乗り戻ってきたが、一歩たちはその数時間を待って俺と一緒に病院に行くと言った。それならば、おそらく急を要する状態ではないはずだ。俺はただ前を歩く二人の落ち着いた歩調を信じるしかない。
一階とは打って変わって明るく照らされた廊下を進み、順に部屋番号を確認していく。扉が開いている部屋を通過するとき、中で力なく横たわる患者の姿がちらりと見えた。嫌な想像が脳裏をかすめて思わず視線を背ける。
「あった」
一歩が三○六号室のネームプレートを指さした。二つある枠のうちひとつは空欄で、もうひとつに『高梨龍成』と名前が書かれている。武は閉ざされた扉をためらうことなくノックした。
「はい……どうぞ?」
返ってきた細い女性の声に、俺たちは顔を見合わせた。
「こちらが松浦さん、四之宮さん、それから……朝木さん。大学の先輩だよ」
包帯を巻いていないほうの手のひらで俺たちを示していく。ベッドの脇に座るのは、髪を長くしてほっそりとさせた高梨、というくらいそっくりな風貌の女性だ。母親と言われなければ、姉と言っても違和感がないくらい若くて綺麗な人だった。
「あら……いつも龍成がお世話になっています。わざわざ来てくださるなんて、本当に優しい先輩方ね」
「いえいえ! 僕たちも高梨クンとは研究室で日々切磋琢磨させていただいていますから!」
「まあっ、優しいだけでなく真面目で勤勉なのね」
「いやあ、それほどでも!」
でへへ、とだらしなく笑う武を一歩が小突く。色白で大きな瞳、艶のある茶色の髪は、なるほど武の好みかもしれない。少し幸の薄そうな眉だけが、隣で明るく笑う高梨とは違う雰囲気を出している。それにしても後輩の母親にまででれでれするなんて、と俺と一歩は思わずため息をついた。
「えっと……怪我のほうは大丈夫なの?」
一歩の問いかけに高梨が顔を上げた。
「ええ。手首の骨折みたいです。自転車に乗っていたら急に曲がってきた車と接触して、横転した拍子に手をついただけなんですが……」
少し呆れたように母親に視線を送る。母親はそんな息子の表情に唇を尖らせた。
「倒れたときに頭を打ったというから、精密検査を受けるように言ったんです。でも今日はもう予約を入れられなくて……ちょうどこの病院には知り合いがいたものですから、念のため入院するように少し無理を言って先生にお願いしたんです」
「大げさなんだよ、母さんは。すみません、皆さんにも余計な心配をおかけしてしまって……」
事故、入院と聞いたときから、どれほど緊張していたのか気がついた。背中から力が抜けそうになる。ギプスで固められた手は痛々しいが、高梨の表情は穏やかだ。良かった。本当にそれだけが頭の中を占めている。
細く息を吐くのと、「迅さん」と名前を呼ぶ声が聞こえたのは同時だった。
「母さん、前に話したと思うけど、迅さんが今俺とルームシェアしてる人だよ。来年から一緒に博士課程にも行くし、これからも長くお世話になるからきちんと挨拶しておいてほしい」
高梨の母親の表情がぱっと明るくなった。身を乗り出すように手を合わせる。
「龍成から聞いています! この子、家でなにもやっていなかったから任せきりになっていませんか? ご迷惑をおかけしていないか心配だったんですよ」
「そんな、俺が居候させてもらってる感じですから、むしろ迷惑は俺がかけていて……」
母親に俺の話をしているとは知らなかった。しかもよく考えれば居候前に挨拶をすべきだったのに、勝手に居ついた俺を普通に受け入れてもらえているのが不思議だった。今も身を縮める俺に向かって優しく微笑んでくれている。
「博士課程に進学というのも、私はよくわからなくって。でも朝木さんが一緒にいてくれるなら本当に心強いわ。きっと大変なことも多いと思うけれど、応援していますね」
あまりに驚いて、言葉が出なかった。俺と母親を楽しげに眺めていた高梨が、一瞬目を細めたのが視界に入った。
「母さんはもうそろそろ帰っても大丈夫だよ。明日検査を受けたらまた連絡する」
「え? でも……」
「俺より母さんのほうが身体弱いんだから。ほら、タクシー呼んでもらって」
急かすように腕に触れる。渋々というように立ち上がった母親に笑顔で手を振っているのが、逆に圧をかけているようにも見えた。さすがに俺たちの前で母親がずっとそばにいるというのも気恥ずかしいのかもしれない。そんな高梨の態度にも慣れているのか、母親は今度ぜひうちに遊びにいらしてくださいね、と優しく微笑んで部屋を出て行った。
突然、一歩が勢いよく俺たちを振り返った。視線をぐるりと巡らせる。
「あー……タケちゃん、俺たちお母さんをお見送りがてら飲み物でも買ってこない?」
「お? おう、そうだな!」
俺が声をあげる前に、迅は高梨と待っててよ、と一歩は武を急かして母親を追いかけていった。
「今日は、どこに行ってたんですか?」
扉が閉まる音から沈黙が続いていた。それを破ったのは高梨だった。
「朝早くから部屋にいなかったし、心配していたんですよ」
「ああ……それは」
どこから、なにを話せばいいのだろう。少し迷って口を開いた。
「実家に帰ってたんだ。祖父の墓参りに行って――」
たった数時間前のことを思い出して、また息が詰まってしまう。高梨はベッドの脇を手で示した。促されて腰をかける。高梨はなにも言わず、黙って俺の言葉を待っている。
なにも話すことはできないと思っていたのに、口を開くと腹の底で渦巻いていた思いが自然と流れ出てきた。
「偶然、四年ぶりに母親と会ったんだけど……やっぱり俺がやりたいこととか、理解してくれていなくてさ。親にはもう一切負担もかけていないつもりなのに、否定しかされないとなると、さすがに辛かった。でも、おまえのお母さんみたいな人もいるんだよな。純粋に応援してくれて、温かく迎え入れてくれる親がいるなんて信じられなくて……さっきは驚いてなにも言えなかったよ」
誤魔化すように笑っても、高梨の表情はかえって険しくなる。しばらく考えを巡らせたあと、ふっと表情を緩めた。
「血がつながっていようと、親は所詮他人です。いくらがんばっても、お互いに理解できないこともあると思うんです。でも――」
手の甲がふわりと温かく包まれた。シーツの上で重なった手を見下ろして、驚いて顔を上げるとまっすぐな瞳とぶつかった。
「俺は、迅さんが誰よりもがんばっていることを知っています。いつも他の人のことを考えながら、精一杯やりくりして、自分が叶えたいことのためにまっすぐ進んでいるのを見ている。だから大丈夫です」
「なにが大丈夫なんだよ……」
手を引こうと思っても、上からしっかりと握りこまれてしまう。
高梨の熱がじんわりと伝わって、冷えきった胸の内側から温かくなってくる気がした。
言葉というのは不思議だ。目に見えないものなのに、そこに確かな形を作ってぽっかりと空いた穴を埋めていくのを感じる。
高梨も同じだったのだろうか。大学に入学して不安だったときに、俺の何気ない言葉が高梨を支えたのかもしれない。
今なら高梨の気持ちがわかる気がする。俺は今、これが欲しかったんだ。そう自覚した瞬間に、自分の中でなにかが音を立てて変化した気がした。
「あの、さ。昨日の夜は、本当にごめん。迎えに来てもらったのに迷惑かけたよな。帰ってからもおまえに抱きついたりなんかして――」
「ああ、あれは……心配しないでください。真に受けたりなんかしませんから」
「え?」
離れていく手を目で追いかけてしまう。高梨は困ったような笑みを浮かべた。
「すごく酔っていましたから、仕方ないですよ。俺はまったく気にしていないですから、迅さんも気にしないでください。でも、あんなに酔うような飲み方じゃ身体を壊しかねないですから、次からは気を付けてくださいね」
まったく、という言葉にひどく重みを置いているように聞こえた。なぜだろう。俺を受け入れているように見えて、拒絶しているようにも感じる。ほんの一瞬前まですぐそばに感じていた距離が、急速に離れていく。手の甲の熱はとっくに消え去り、かえって冷たくなった気さえした。
廊下から聞こえるにぎやかな話し声に、弾かれたように立ち上がる。一歩と武がペットボトルを手に戻ってきた。
「とりあえずお茶買ってきたよ」
「すみません、ありがとうございます」
高梨はいつもの落ち着いた表情で応える。明日の午後に退院すること、荷物を運ぶ手伝いをすること、しばらくリハビリをすること――そんな話をしている高梨たちを、俺はどこか遠くのことのように眺めていた。
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