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第一章 2. 計画・実行・評価・改善が研究の基本です
じゅうじゅうと肉の焼ける音と、食欲をそそるネギと脂の香りが部屋中に充満する。
「一歩、白菜と大根切ったのここに置いておくよ」
「ありがとう、迅」
じゅわっと割り下が躍る、ひと際賑やかな音が響く。途端に周囲から呻き声が沸き起こった。
「四之宮さん……俺も食べていいっすか……」
「俺も……まじで飯テロですよ、良い匂いテロ……」
「こんなの研究になんないっすよ……」
「いいよ、お皿用意しておいで」
一歩の一声でぎしぎしと古い椅子が軋み、後輩たちが大きく伸びをして立ち上がった。
「おーい迅、米も炊けたぞー」
「さんきゅ……っておい武、なんでおまえまでここに居るんだよ。お前は久住研じゃねえだろ」
扉のすぐ脇に置かれたソファに、武が我が物顔でどっかりと座っていた。もちろんマイ箸、マイ茶碗を両手に携えている。
「なんでって、この匂い廊下中に広がってるんだぞ? 来いって言ってるようなもんだろ。むしろなんで誘ってくれないんだよ」
「どうせタケちゃんは勝手に来ると思って」
一歩がにっこりと微笑んで武から茶碗を受け取った。「片づけはよろしくね」と言い添えることも忘れない。
武は俺と一歩とは違う研究室だ。それぞれの指導教員である森下教授と久住准教授は、もともと同じ教授の教え子だった。つまりは、暖簾分けをした兄弟弟子ということになる。しかも学生居室は隣同士。ゼミも共同で行うことも多く、ほとんど同じ研究室と言ってもいい。
唯一違う点は、久住研の学生居室には炊事道具が一式揃っているということだ。
炊飯器はもちろん、大小さまざまな鍋、フライパン、包丁やまな板、木べらやお玉が複数個ずつあるが、これらは卒業生が置いていったものだ。俺たちが久住研に配属されたときには電磁調理器まで既に導入されていて、料理好きな一歩がたまにご飯を作ってくれている。安い材料をまとめ買いして割り勘すれば、一人暮らしで一人分作るよりも安く済む。すでに四年以上も大学で過ごすと、学食にもほとほと飽きてしまうのだ。
ちなみに、冷蔵庫や電子レンジ、湯沸かしポットなんてものはだいたいどこの研究室にも置いてある。カップ麺やコンビニ弁当が研究生活の必需品だからだ。
煮えた野菜と肉をそれぞれの器によそい、各々のデスクや共同スペースで好き勝手に食べ始めた。俺は武と並んでソファに座る。
「一歩のすき焼きはやっぱり旨いなあ」
祖母が西のほうの出身とかで、作り方は肉をネギと一緒に先に焼いて作る関西風だ。こんがりと焼き目のついたネギを頬張る。醤油と肉の甘みがしっかりと染みていて、トロトロと口の中でほどける。
「迅はいつもそう言ってくれるから作り甲斐があるよ。でも本当は牛肉で作るべきなんだけどなあ」
「牛肉とか贅沢すぎるだろ。安く済むし豚肉で充分」
昔は実家でもほとんど牛肉なんて使っていなかったし、とは口には出さないでおいた。牛肉を食べるのなんて、チェーンの牛丼屋に行ったときくらいだ。昔はそれすらご馳走に思えていたものだったのだから。
「そういや、高梨はいないのか?」
武が口いっぱいに白米を突っ込んできょろきょろとあたりを見渡す。
「どうせまた実験室に籠ってんだろ。飯も食わずによくやるよ」
「じゃあ高梨の分も残しておいてあげたほうがいいかな?」
優しすぎる一歩の提案に俺と武が一斉に反対した。
「いいって! 昨日だって結局あいつの一人勝ちだし、飯なんて用意してやる必要なんてねえよ」
「一人勝ち?」
武はがちゃんと音を立てて、すっかり空になった茶碗をテーブルに置いた。一歩が行儀が悪いよ、と小声でたしなめる。
「女の子たちから連絡先を教えてくれって聞かれたの、高梨だけだぜ? しかもあいつ、涼しい顔して『別にいいですけど』だってよ」
向かい側で椅子に座っていた一歩が転がり落ちそうになった武の箸を拾い上げた。そのまま魔法のステッキのようにひょいと振る。
「あれ、迅も北原さんと連絡先交換してなかったっけ?」
「はあ? どういうことだよ、迅!」
暑苦しい追及に慌てて耳を塞ぐ。向かい側で一歩が申し訳なさそうに肩をすくめていた。
昨日の夜――つまり武が幹事の合コンで、俺は北原詩織に狙いを定めていた。だが、まるで高梨が邪魔をしているような素振りを見せた上に、俺に向かって『恋愛偏差値ゼロ』とまで言いやがったのだ。
「だからここで根性見せてやろうって思って、最後に思い切って連絡先だけ聞いたんだよ」
「それで、そのあとやりとりしたのか?」
「いや……」
トーク画面を開くが、交換したときに確認のために送り合ったスタンプが残っているだけだった。
「そういうのは早く連絡したほうがいいらしいぞ!」
「そうなのかもしれないけどさあ……」
連絡と言ったって、何を連絡すればいいのかさっぱりわからないのだ。
「昨日だってまともに会話できなかったのに、何を話題にすればいいんだよ」
「まずは共通の話題を見つけるしかないんじゃないか? 趣味とか……」
「そもそも迅の趣味ってなんだっけ?」
一歩が投げた質問がふわりと宙に浮かんだ。頭に浮かぶのは、ずらりと並ぶ電子部品。それを緑色の基板の小さな穴に通し、銀色の鉛にジュッと熱を与えてくっつける――
「……はんだ付け?」
止まっていた時が深いため息とともに一気に流れだした。
「おまえな……そりゃ共通の話題も見つけられねえわ……」
「なんだと! 実益を兼ねた高尚な趣味だろ! それに集中してはんだ付けすると精神が落ち着くんだよ!」
「わかるよ、わかる。うまく付くと爽快だよな。ロボサーにおまえみたいなはんだ付け職人がいて俺たちは助かってたよ、うん」
ぽん、と肩に置かれた武の手を振り払った。
「そ、そういうならおまえらの趣味はなんなんだよ!」
「タケちゃんは昔からゲームでしょ? 僕はまあ、料理になるのかなあ」
「ゲームも最近は一人でやるやつじゃなくて、オンラインでチーム組むようなやつだぜ。プレイヤーに女子も結構いるしな」
武がドヤ顔で腕を組んだ。
「じゃあ『女子』との交流にさぞや慣れているんだろうな? 教えてくれよ、北原さんと親しくなるにはどうしたらいいのか」
武と一歩が互いの顔を見合わせた。
「ほら見ろ。おまえらみたいに中高一貫男子校から工学部に進学、男しかいないロボサー所属と帰宅部じゃ、何の役にも立たないね」
「おまえだって工業高校だから似たようなもんだろ!」
一歩が何かに気づいたように顔を上げた。扉が開き、ふうっと疲れたため息が降りてくる。
「二人の声が廊下まで響いてますけど、いいんですか?」
ノートパソコンを手にした高梨が呆れた顔で立っていた。
「あ……すき焼きがまだちょっとだけ残ってるけど、高梨も食べる?」一歩が遠慮がちに言いながら立ち上がる。
「いえ、さっき学食で軽く食べてきたんで大丈夫です。ありがとうございます」
高梨はなぜか一歩にだけは礼儀正しい。一歩はうなずき、俺たちの食器を手にして流しのほうへ向かった。後輩たちが片づけを申し出ているようだ。カチャカチャと食器の擦れる音が響く。
「聞こえてたんならちょうどいい。おまえ昨日、『恋愛も研究と思って考える』とかなんとか言ってたよな。あれってどういう意味だよ」
自席に戻ろうとしていた高梨が足を止め、くるりと振り返った。
「そのままの意味ですよ。行き当たりばったりで思いつきのまま行動したって、研究はうまくいかないでしょう。研究の基本も他と同じく、計画・実行・評価・改善。恋愛も、まずは計画をしっかり立てないといけないんじゃないですかね」
「そういうもん……なのか……?」
武を振り返るが、ものすごく怪訝な顔をしている。
「飯食ってだらだらとおしゃべりとは……ずいぶんと余裕だな、きみたち」
低い声に思わず飛び上がった。皺のないスラックスに包まれたすらりと長い脚が見える。
「先生……」
口元を引きつらせた久住は美形なだけに迫力があった。きっちりと整えられた艶のある黒髪にノーネクタイのスーツ姿は、工学部の教員というよりはエリート会社員に見える。
「修論提出は二月だ。あと半年以上あると思っているだろうが、放っておくと旅行だのなんだのって研究室に来なくなるからな。四之宮は修論までに発表する学会と計画の見直しをして一度相談しにくること――松浦、きみもだ。森下先生が大層心配しておられたぞ」
こそこそと逃げようとしていた武が、か細い声で返事をする。
「それから朝木と高梨、学内進学者の入試は来月だからな。発表練習のスケジュールを二人で合わせて連絡するように。高梨は早期修了分の授業の取りこぼしもないように気をつけなさい。学奨の申請で向こう三年の研究計画書を出したばかりだろう。そいつが嘘にならないようにしっかり研究を進めること」
仕上げとばかりに居室内をぐるりと見渡して後輩たちにも声をかける。
「しばらく部屋にいるから、なにかあれば来なさい」
その鶴の一声で我先にと人が集まる。普段指導してもらおうにも、久住は会議や授業でなかなか捕まえられない。居室をノックして返事があれば相当ラッキーなのだ。
「あれっ、高梨……」
ようやく矛先から逃れてほっと息をついたが、よく考えれば肝心なことは解決していない。高梨の姿を探すと、すでに自席で何か作業をしていた。ぴんと背筋を伸ばし、無表情でパソコンに向かっている。あの状態になっては話しかけてもまともに返答しないだろう。冷え冷えとした空気をまとうあいつを昨日の合コンの子たちに見せてやりたい。きっと一目散に逃げ出すはずだ。
一歩も片づけを終えて席に戻っていた。武はもちろん逃走済みだ。
俺はなんとなくやる気が起きず、そのままソファに深く腰をかけ直した。
恋愛にも計画が必要、か。確かにノープランでぶつかっても今のままでは成功する見込みは低い。悔しいが、恋愛偏差値ゼロというのは間違った評価ではない――なんて言ったって、この年齢まで恋愛そのものをまともに経験したことがないのだから。
とはいえ、計画を立てるにしてもどうしたらいいのか――
『研究計画書を出したばかりだろう』
パチリと脳内で回路がつながる。久住の低く響く声がリフレインした。
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