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第二章 11. これまでの反省を生かすチャンスです
「高梨、入院したと聞いていたが……大丈夫だったのか?」
「はい。入院といっても検査のためだけでしたから。特に問題もありませんでした。手のほうは完治に少し時間がかかるようです。でも指先はなんとか動かせますし、利き手は無事だったので実験や論文執筆も問題ないと思います」
プログラミングをしながら、高梨と久住准教授の会話にこっそりと聞き耳を立てる。画面上には無意味な文字の羅列が増えていくばかりだ。
「実験はさすがにひとりじゃ難しいだろう。そうだな……朝木にでも手伝ってもらったらどうだ?」
思いがけず自分の名前を呼ばれて、ぎくりと身体をこわばらせる。棚の向こう側へ顔を出そうとしたとき、高梨が「いいえ」とはっきり応えた。
「朝木さんも忙しいでしょうから……同期か、後輩に手伝ってもらいます」
「そうか。九月に入れば授業も始まるし、遅れがでないように計画を見直しておこう。ただし無理して悪化するようなことがないように気をつけなさい」
「わかりました。ありがとうございます」
お大事に、という言葉を残して久住が居室を出て行った。
「高梨、実験は俺が手伝うよ。今そんなに立て込んでるわけでもないし」
聞いているとは思っていなかったのか、振り返った高梨は目を丸くした。
「いえ……四年生もいますから、大丈夫です」
「でも前に手伝うって約束したよな。それに四年だって慣れない卒研で手一杯だ。俺なら細かい作業も得意だし、おまえの装置の仕組みは大体把握してる。ただでさえ怪我で遅れがでる可能性が高いんだから、効率的なほうがいいだろ?」
いつもなら理詰めで説得をするのは高梨の役割だ。奇妙な違和感をおぼえながら、高梨の返事を待つ。顔を上げた高梨は感情を綺麗さっぱり消していた。
「ありがとうございます……でも本当に大丈夫です。迅さんの手をわずらわせるほどのことでもないですから。――白河、ちょっといいか?」
ちょうど居室に入ってきた白河が驚いた様子でうなずいた。
「時間があれば手を貸してほしいんだけど」
「えっ、あっはい! もちろん良いですよ!」
嬉しそうに跳ねる白河を連れて歩いて行く。一度も俺のほうを見ようとはしなかった。
もやもやする。
最近、高梨は明らかに俺を避けている。いや、表面的には普通を装っているし、傍から見ただけではわからないかもしれない。会話は交わすが、物理的に近づこうとすると必ず一歩引く。俺たちはくるくると滑稽なダンスを踊っているような、そんな状態が続いている。
家の中でも同じだった。手を伸ばして触れられる距離には近寄らなくなっている。少し前まで何気ない瞬間の距離の近さにどぎまぎさせられていたのだ。気づかないはずがなかった。
一体なにを考えている? 知りたい。何もなかったふりをするなんて、俺にはもうできない。
現状の打破。そのために俺は、遅れて帰宅してきた高梨に、シャンプーしてやるよと提案した。前日にギプスと包帯を濡らさないようにと格闘した高梨が、髪に泡を残したまま浴室から出てきたからだ。再び頑なに拒否しようとする高梨にハゲるぞと脅すと、渋々といったようにうなずいた。
「かゆいところはありませんかー?」
ふふっと笑う声に、思いきり指に力を込めてやる。痛い痛いと言いながら、高梨は右手で俺の腹を叩いた。良かった。今までどおりの距離感だ。
泡を立てて耳の後ろをかいてやる。気持ちよさそうに息を吐いたのが犬みたいで、おかしくて笑ってしまう。視線を感じて腕をずらすと、高梨がまぶしそうに目を細めて俺のことを見ていた。
「な……なに見てるんだよ」
「いえ。帰ってきてくれて嬉しいと思って」
「……今帰るところはほかにないしな」
「それでも嬉しいんです」
再び目をつむって力を抜く。身を任せているような仕草に思わず手を止めてしまった。心臓が跳ねて、ぎゅっとつかまれたみたいに苦しくなる。じゃあどうして、と聞きたくなるのをぐっとこらえた。
「流すぞ」
思わずぶっきらぼうな声になったが、高梨は気にした様子もなく「おねがいします」と応えた。蛇口を伸ばして湯を出す。広々とした洗面台は、デスクチェアの座面を少し高くして背中合わせにしてやるだけで立派な理容室のようになっていた。耳に水が入らないよう慎重に、こめかみ、額の生え際とシャワーをかける。一瞬だけ怯んだように眉間に皺が寄るのを見ると、いたずらを仕掛けたくなった。
「うわっ!」
指先につけた湯を少し顔にかけただけなのに、高梨は大げさに飛び跳ねた。げらげらと笑う俺を高梨は恨みがましい目つきで見ている。タオルを軽く当てて、そのまま髪を包んで身体を起こしてやった。
「……ありがとうございました」
「まだ終わりじゃない」
頭の上にはてなマークが乗った高梨の身体を椅子ごとくるりと回す。今度は鏡に向かって座らせて、タオルでがしがしと水気を取る。
「あとは自分でやりますから――」
「いいから、俺に任せろ。朝木理容室はサービス満点なんだ」
「なんですか、それ」
ドライヤーのコンセントを挿して温風を出す。俺のごわごわの髪と違って、高梨の髪はなにもしなければまっすぐで柔らかい。だんだんと本来の明るい色が見えてくる。風を当てながら光にかざすと、きらきらと輝いて綺麗だ。
ドライヤーを切って、髪をすきながら乾き具合を確認してみる。ふと、右耳のうしろのあたりに三つ、ほくろが星座のように並んでいるのに気がついた。
なぜか突然、急き立てられるような感情が胸の内側から湧き上がった。白いうなじの上の星たちを、指先でそっとなぞる。
「っ……やめてください」
強い力で手を掴まれた。鏡越しに視線がぶつかる。だがすぐに高梨のほうから目を逸らした。俺の手を少し乱暴に振りほどいて立ち上がった。
「ありがとうございました。もう充分です」
「おいっ……待てよ!」
声をかけても高梨は立ち止まらなかった。自室に入って扉を閉めようとするのを手で押さえた。無理やり身体をねじ込む。
「ちょっと話がしたいんだけど」
「俺は話すことはありませんから」
「俺はあるって言ってるだろ!」
高梨の表情は、まるで迷子の子どものようだと思った。不安と、恐れと、苛立ちがぐちゃぐちゃに混ざって、顔にべっとりと貼りついている。
「俺がここに帰ってきたのが嬉しいって、さっき言ったよな?」
正面に立つ高梨はため息とともに「嬉しいですよ」とつぶやいた。
「じゃあなんで露骨に俺を遠ざけようとするんだよ。言ってることとやってることが噛み合ってないの、気づいてないのか?」
高梨がキッと鋭い視線をよこした。
「じゃあ逆に聞きますけど、どうして迅さんは俺を試そうとするんですか?」
「試すって、なにを――」
「ほら、無自覚でやるからタチが悪いんですよ! 酔っ払ってキスしたがったり、さっきだってあんな触り方してきたり……俺がどれだけ必死になって我慢してるか、気づいていないのはそっちでしょう!」
「なにを我慢する必要があるんだよ」
はあっと息を吐いて苛立たしげに髪をかきむしる。
「あのときのこと、覚えていないんですか!? 最初に何もしないって言ったくせに、俺は一度触れたら抑えが効かなかった。いきなりあんな――襲うようなことしてしまったんです。どれほど軽蔑されてもおかしくなかった。でもあなたは何事もなかったように家にいてくれて、これまでどおり接してくれたから……このまま俺が我慢さえすれば、そばにいられると思ったんですよ!」
思わずぽかんと口を開けてしまう。手を握って励ますくせに、次の瞬間には無関心を装う。触れようとしても、するりと指先から逃げようとする。最初に好きだとか言ってきたのは高梨のほうなのに、俺ばかりが気にして、不安になって、苛立って、なんて理不尽なんだと思っていた。それが全部、俺のそばにいたいからだった、だと?
「だから……我慢する必要ないって言ってるだろ!」
「俺が迅さんに対してどういう欲求を抱いているか、まだわかっていないんですか!? そのときになったら、この間みたいに朝突然いなくなって逃げだしたりするんでしょう――」
思わず高梨の胸ぐらを掴んだ。至近距離で驚きに見開かれた薄茶色の瞳を覗きこむ。視線を下にずらし、半開きになった唇に――俺の唇をぶつけた。
「俺のファーストキスだ! ありがたく受け取れ!」
しばらく絶句したあと、高梨はようやく口を開いた。
「な……なんなんですかもう……意味がわからないんですけど……」
「だーかーら、俺もおまえと同じなんだって!」
顔が火照って仕方がない。心臓が背中まで突き抜けそうなほどばくばくと脈打っている。
「好きとか……そういう言葉の定義は正直まだよくわからない。けど、おまえに触れられるのは嫌じゃなかった。むしろもっと触れてほしいって思ったし、触れてみたいって思った。それじゃダメなのかよ」
じわじわと高梨の顔が赤く染まっていく。眉はハの字で、ちょっと情けない顔。いつでも澄ました男の意外な表情を見ることができるのも、俺の特権だ。そう思うと、こそばゆいけど嬉しい。
そっと窺うように腕を伸ばしてくる。俺が背中に手を回すと、苦しいほどきつく抱きしめられた。
「ファーストキス……やり直していいですか?」
「ん……」
すくい上げるように唇を食んでくる。一瞬で終わると思ったのに、何度も、何度も唇が重なる。柔らかくて、しっとりとしていて、想像していた以上にキモチイイ、けど――
「長い! 死ぬ!」
肩を押して遠ざける。突き飛ばされた高梨は不満げだ。
「まさか……息止めてたんですか? 鼻で呼吸すればいいんですよ」
「口では簡単に言うけど難しいんだよ! こちとら初めてだって言ってんだろ!」
呆れたような表情が、一瞬にして甘い笑顔に変わる。
「じゃあ、たくさん練習しないといけないですね」
「え、あ、そうなるの?」
返事がわりにチュッと音を立てて唇をついばまれた。高梨は深く息を吐いて俺の首筋に額を当てる。
「やっとキスできた」
つぶやきが耳をくすぐる。どういう意味かを理解して、思わず「ごめん」と返してしまう。
酔っぱらったときの記憶は、唇が触れるかどうかというところで途切れている。そのまま寝入った俺を前に、口づけることなく俺に服を着せて……と世話を焼いてくれたのだろう。高梨龍成とはそういう男だ。
「謝らなくていいです。これからいくらでもできますから……ね?」
顔を上げた高梨の瞳がキラリと怪しく光った気がした。
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