第二章 12. 慣れたときこそヒューマンエラーに要注意

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第二章 12. 慣れたときこそヒューマンエラーに要注意

「んん……ふっ……」  ベッドの上で俺に覆いかぶさり、高梨がキスを繰り返してくる。上唇を吸われて、隙間からなんとか酸素を取り込もうとした瞬間に不届きものの舌がするりと入り込んだ。  くちゅくちゅと卑猥な水音が耳を震わせる。熱い舌が俺をからかうように、なでて、くすぐって、羞恥心ごと絡めとっていく。  高梨の手首の骨は、三週間程度でくっついたらしい。そんなに早いのかと驚いたが、もともとぽっきり折れていたわけでもないし、カルシウムを積極的に摂ったからからだと高梨は胸を張った。そういえばアホみたいに牛乳を飲んでいたなと思い出す。その後も引き続き死に物狂いでリハビリに取り組んでいた。その異常なモチベーションがどこにあるかは……言うまでもない。    骨がくっつくまでの間に何もしなかったかというと、そんなはずがあるわけがなかった。  ちゅっと音を立てて唇が離れる。 「鼻で呼吸、できるようになったんですか?」  くすりと笑って鼻先を擦りつけてくる。大型犬みたいな仕草だが、犬は器用に俺の服を脱がせようなんてことはしない。  練習、と銘打って高梨は相変わらず毎日のようにキスを迫ってくる。家だけならまだしも、研究室でさえこっそりと手を出してこようとするから始末が悪い。俺も俺で、高梨に引き寄せられて、耳元でささやかれてしまうと少しも抵抗することができなくなる――今みたいに。  高梨はついばむように口づけながら、シャツのボタンを外してはだけさせる。胸の突起に触れられると、思わず身体が跳ねてしまった。 「あっ……」 「最初のときから思ってたんですけど」  俺の目を覗きこんで嬉しそうにつぶやく。 「迅さん、胸弱いですよね」 「誰のせいだと思って……あ、あっ、やめっ――」  すっかり尖ってしまったものを舌で転がしてくる。怪我をしていない右手も遠慮というものを知らずに俺の身体をまさぐっている。その手が下へ、下へと下がっていき、スウェットのゴムに引っかかった。骨ばった手がするりと中へ侵入していく。大して肉のついていない尻をなでまわしたと思ったら、指先が谷間をなぞってきた。 「おい、たかなし……」  高梨がもう一度伸びあがって唇を食む。抗議の声を丸め込むつもりだ。ぺろりと唇の端を舐められても、固く口を閉ざす。 「まだダメなんですか?」 「まだ、っていうか、なんで俺が挿れられる側で確定なんだよ!」  俺を見下ろす表情は不満げだ。一瞬スッと目を細める。これは頭の中でなにか目まぐるしく計算をしているときの仕草だった。まずい。俺は本能的に身を硬くする。  高梨は俺の尻をなでながら、耳元に唇を寄せた。耳たぶを甘噛みされて一気に力が抜ける。 「あんっ……音が……だめだっ、んあっ」  ダイレクトに届く音と生温かい感触にぶるりと背中が粟立った。耳朶を舌で弄び、俺を溶かそうとしている。 「ほら、迅さんってキモチイイことに弱いじゃないですか」  耳に吹き込むように低くささやく。俺が声にも反応することを優秀な高梨はとっくに学習している。 「絶対に素質があると思うんですよね……中でイクのってすごくキモチイイらしいですよ。でもいきなり無理をすると辛いらしいので、しっかり準備と練習をしておかないといけないんです」  知ってる。入念な準備が必要なことも、中を刺激するとどういうことが起きるかということも。男同士でのセックスに必要なことはひと通り勉強した――追加購入したマニュアルで。  こっそりと入手した『理系男子のための恋愛マニュアル 〜上級者編〜』は、ほぼ全てがセックスに関する解説だった。男女間だけでなく男性同士(そしてなぜか女性同士)のことまで網羅されている上に、フルカラーで医学的、生理学的な知見まで事細かに図解されている。さすが理系のためのマニュアルである。    内容を理解したからといって、それを自分が許容できるかというのは別の問題だ。キモチイイだけなら俺ではなく高梨がそれを経験したって良いはず。良いはず、なのに――  懇願するように額を合わせ、もう一度キスをしてくる。高梨以外とキスをしたことがないから他人と比較することはできないが、とにかくこいつとキスをすると脳みそが溶けてしまったんじゃないかってくらいに何も考えることができなくなる。おまけに敏感になった乳首を爪で弾かれてしまったら……その時点でゲームオーバーだ。 「ん、あっ、わかった、わかったからっ……」  ぱっと刺激が止まった。目を開けると、高梨が満面の笑顔で俺を見下ろしていた。 「いつまでそうやってるつもりですか?」  高梨のからかうような声が聞こえる。俺は頭から布団を被り、亀のように丸まっていた。 「迅さん、お願いですから機嫌を直してください……俺、寂しいんですけど」  背中にずっしりと重みがのしかかってきた。高梨が布団ごと俺を抱きしめているらしい。 「無理、絶対無理!」 「どうしてですか」 「いきなりケツの穴に指突っ込まれてゴキゲンな男がいるか!」 「でも痛かったならまだしも、気持ちよかったんだから良かったじゃないですか」  ぐぬぬと思わず歯噛みする。  ケツの穴というのは「出す」ための場所だ。俺はその固定観念にガッチガチに縛られている。今だってそれは変わらない。だから何かを挿れるという行為自体に身体全体が拒絶していた、はずだった。  ところが一本の指が奥をさぐり、あるポイントを――マニュアルによれば前立腺らしいが――押さえたとき、背中がぞくぞくと震えて止まらなくなった。  未知との遭遇で自分が変わってしまうという恐怖と、見え隠れする快感の狭間で俺は思わず泣きじゃくってしまったのだ。  おまけにケツを弄っている高梨にしがみついて泣いた。全部高梨のせいなのに。まったく……恥ずかしすぎる。  高梨はそんな俺をあやすように抱きしめたあと、互いにくすぶっていたモノを擦り合わせて同時に熱を解放させた。それで一度落ち着いてしまったせいで、余計にいたたまれなさが襲いかかってきている――というのが今の状況である。 「そろそろお腹空きませんか?」 「……」  返事をせずにいると、背中の重みがふいに軽くなった。  このまま眠って忘れてしまおうか。そう考え始めていたとき、再びベッドがぎしりと軋んだ。 「迅さん、この間学会から国際会議の案内があったのを覚えてますか? 招待講演にアメリカの有名な先生が呼ばれているみたいなんですよね。ほら、その先生が書いた教科書も俺たち持ってますよ。せっかくなら発表して現地で聴講したいと思いませんか?」  国際会議?  もぞもぞと布団から頭だけを出す。顔を上げると、高梨の呆れた視線とかち合った。 「……まったく、食い気より研究ですか。まあ、わかってましたけど」 「なんだよ騙したのか?」 「いいえ、これは本当の相談です」  ノートパソコンを目の前に置いて高梨も隣にうつ伏せになる。 「この国際会議に一緒に出しませんか?」 「一緒に? なんで?」 「なんでって……一緒に海外に行きたいからに決まってるじゃないですか」  にやりと笑みを浮かべて俺の顔を覗き込んだ。 「二人だけで堂々と旅行できる格好の口実ですよ?」 「おまっ……そんな不純な動機で学会発表するのかよ!? あのクソ真面目な高梨は一体どこに行ったんだ!」 「俺はいつだって真面目ですよ」  ふてくされたように息を吐いた。 「だって迅さん、二人で一緒に出かけようとしてくれないじゃないですか」 「それは、だってほら、おまえはまだ怪我してるわけだし――」 「もう治ってますよ。そうじゃなきゃさっきみたいなことできないでしょう。そんなに信じられないなら、もう一回ヤりますか?」 「いやっ、わかった! わかったから!」  高梨の目が怪しげに光り始めた。気が変わる前に話を戻さなければ! 「それで、どこで開催されるんだよ」 「イタリアのフィレンツェです」 「イタリアぁ? そんなとこに行く金があるわけがないだろ」 「そう言うと思って調べておきました」  思わず高梨が眼鏡をくいっと上げる仕草を幻覚した。きりりとした横顔でブラウザを立ち上げ、大学の学内ホームページへたどり着く。 「うちの学科で学会発表の旅費補助制度があるんです。申請が通れば、宿泊費と旅費の半額を補助してもらえます。その代わりレポートを提出する必要がありますが、どうせ講演や他の人の発表を聴いてメモをとるんですから、それほど作業が増えるわけではありません。残りの半額と参加費は久住先生に交渉して、科研費から出してもらいましょう。今年度はまだ予算があるそうです」 「そんなことまで調べたのかよ……」 「真面目だって言ったじゃないですか」  自慢げに鼻を鳴らした。 「ただ、この学会は採択率三十パーセントなんですよね。久住先生にそれくらいのレベルじゃないと費用は出してやらんぞって言われて……」  投稿者の三人に一人しか採択されないとなると、一般の学生にとっては難しいレベルだ。確かに、出せば通ってしまう学会への発表まで全部援助していたら金がいくらあっても足りなくなる。研究室の予算はいつだってかつかつだ。装置やパソコンを買うだけでかなりの額が飛んでいってしまう。久住が厳しい線引きをするのも当たり前のことだった。 「採択されれば良い業績になりますし、ダメ元でも挑戦してみたらいいと思いませんか? いや、迅さんなら採択されると思いますけど」 「……そんなに行きたいのかよ、イタリア」  高梨はわかりやすく表情を明るくして身を乗り出した。 「イタリアは行ったことがないんです。やっぱり飯は美味いらしいですよ。フィレンツェは市街中心部が世界遺産にもなっている場所で、歩くだけでも楽しいと思うんです。迅さんも興味ないですか?」  そう言いながら新しいウインドウを開いて画像を検索しだした。鮮やかな青空を背景に、オレンジ色の屋根が連なる。映画の中でしか観たことがないような中世の街並みがそのまま残っていた。穏やかな川の水面に映る白い橋、街を見下ろす鐘楼、ステンドグラスを通して夕陽が差し込む教会――次々と映し出される写真にどんどん引き込まれていく。 「俺さ、旅行とかほとんど行ったことないんだよね」ぽろりと言葉が零れ落ちる。 「修学旅行くらいかな? それも全部お膳立てされているようなツアーだったし、自分で行きたいところをぶらぶら歩くっていうのが正直よくわからないんだよな」  驚いた表情で言葉を失う高梨に「でも」と慌てて前置きをする。  「こんな洒落た街の中を高梨と二人で歩いているところは想像できないけど、知らない場所とか、見たこともないものとか、慣れない言葉の中にいたとしても、おまえと一緒ならきっと楽しいだろうなって……なんとなくそんな予感はするよ」  不意に高梨の顔が近づいてきて――柔らかな感触を残して遠ざかる。 「なっ、なんだよ急に」 「だって、迅さんが嬉しいこと言ってくれるから」  高梨がくすりと笑って目を細めた。採れたてのオレンジをぎゅっと絞って凝縮したような、甘酸っぱい笑みだ。それを見て俺まできゅんとしてしまうのだから、病状は深刻である。  これは病気だ。それも頭の中をゆるやかに麻痺させる末期の病。  だから俺は忘れていたのだ。勘違いしていたと言ってもいいかもしれない。  今俺が歩いているのは温かな土の上なんかではなく、薄く脆い氷の上だということを。  いとも簡単に溶けて、崩れて、冷たい水の底に落ちてしまうということを。
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