第二章 13. 結果が覆される可能性にも備えておくべきです

1/1

260人が本棚に入れています
本棚に追加
/36ページ

第二章 13. 結果が覆される可能性にも備えておくべきです

 件名:【日本学術奨励会】特別研究員の第一次選考結果の開示について  朝木 迅 様  貴殿より申請のありました特別研究員DC1の第一次選考結果を電子申請システムにおいて開示しました。  申請書作成時に使用したIDおよびパスワードを用いて、以下のURLの「申請者ログイン」ボタンより電子申請システムにログインし、結果を確認してください。  *  世の中には、絶対評価と相対評価という二種類の評価方法がある。  絶対評価は、簡単に言えば最初に設定した目標を超えていれば合格、という仕組みだ。他者の結果に左右されず、努力が目に見えて結果に表れやすい。  一方で相対評価は、その名の通り他者との比較によって自分の立ち位置が決まる。合格か不合格か、あるいはA、B、Cなどの判定に対して、ゲームが始まる前から比率が決められているのだ。どれだけ他の参加者との成績が僅差であっても、決められたルールに則ってランク付けされる。  勝者と敗者が、明確に線引きされる。学奨も同じだ。 『不採用B』  はっきりと画面に映し出された文字を俺はただ眺めていた。  結果開示のメールに気づいたのは、昼を過ぎた頃だった。学生居室には後輩たちもいて、とてもじゃないがその場で開く勇気はなかった。だから俺は今、ひと気のない実験室にいる。  借金一千万円。その言葉が頭の中でじわりと浮かび上がってきた。嫌な汗がにじみ出てくる。  俺は衝撃を受けていた。落ちたことに、ではない。ついさっき、結果を見る瞬間まで、自分が受かると思っていたということに。  修士課程での奨学金の返還と、博士課程での学費の全額免除、そして研究費と生活費――すべて学奨で解決できる。そう信じていたからこそ、採用されなかったときのことを、考えていなかった。いや、考えないようにしていた。  すでに選択肢はなくなってしまった。バイトを続けて、奨学金を借り続けて、ティーチングアシスタントも続けて、今までと同じ生活を送るしかない。  ()()()()()()()()?  俺は()()()()()()()()生活していけばいいんだ?  目の前が暗くなってくる。俺は本当にこのまま進学をしていいのか。今さら就職なんてできるのか? 「そうだ、先生に伝えに行かないと……」  申請のときには久住准教授に書類を散々指導してもらった。忙しい中かなりの時間を割いてもらったのに、不採用だった。それでも今は申し訳ないという気持ちよりも、俺自身がこれからどうしたらいいのかということで頭がいっぱいになっていた。  教員居室までの道のりが、ひどく遠く感じる。不採用だなんて伝えられたところで、久住はどんな顔をするだろう。  廊下の一番奥の居室から、なぜか久住の声が聞こえてきた。ほんのわずかだが、扉が薄く開いているのが見える。 「そうか、おめでとう」 「先生にご指導いただいたおかげです。ありがとうございます」  聞き間違えるはずがない。高梨の声だ。足がその場に凍りついたように動かなくなる。 「うちの研究室から学奨に採用されたというのは私にとってもありがたいことだ。しかも面接免除とは優秀だな。やっぱり四年のうちに論文を一本書かせておいて良かったよ。あとは早期修了だが、単位は問題なく取れているな?」 「はい。前期に詰め込んだので、後期は必修だけ取れば大丈夫です」 「それなら大丈夫だな。学奨に採用されたんだから、修了時の研究科長表彰も確実だろう。推薦を出すようにしておくから――」  俺はどうにかして足を動かし、来た道をもう一度歩き出した。 「迅、どこに行くの? ……迅?」  今は誰にも会いたくない。そう思っていたのに、研究棟の入口で一歩と出くわしてしまった。 「おーい、なんで無視するの。って……酷い顔色だよ、大丈夫?」  大丈夫なんかじゃない。いつもの一歩ならここで一度引くはずなのに、なぜか今日に限ってしつこく食いついてくる。 「ちょっと待ってってば」  腕を掴まれても、振りほどく気力もなかった。仕方なく足を止める。一歩はそれでも手を離さなかった。顔を覗きこまれて気づく。一歩は深刻な表情で俺を見つめていた。 「大丈夫じゃなさそうだね……熱がある、わけではないか」  指の背で額に触れられても動くことができない。声を出そうとして唇を舐めたとき、ぬるい血の味がした。 「ねえ、迅。ちょっと付き合ってくれない?」  一歩の声は提案というよりも、指示に近いものだった。  ホットコーヒーを二つ。そう頼んでいる声をぼんやりと聞いている。一歩についてきたのは、断るのもなにもかも面倒だったからだ。  湯気がたつマグカップが置かれても、一歩は口を開かなかった。大学のすぐ目の前にある大手チェーンのカフェは、平日の昼間でも学生や近隣の住人で賑わっている。少しずつ、人の話し声や店内の音楽が耳に触れて、馴染んでくるのがわかる。ひとりになりたいと思っていたはずなのに、人の気配に安堵していることに驚いていた。  一歩はマグカップを手に窓の外を見ている。横顔は凪いだ海のように穏やかだ。五年半の付き合いで、一歩が怒っているところや落ち込んでいるところをほとんど見たことがない。どんなときでも受け止めてくれるこの友人を大切にしなければいけない。 「ごめん」  一歩がこちらを向いた。柔らかく笑みを浮かべて、俺の目の前のコーヒーを指す。 「僕が勝手に注文したんだから、これは奢りね。冷めちゃうから飲みなよ」 「……ありがとう」  コーヒーはすでに少し冷めていた。それがかえって苦味や酸味をはっきりと感じさせている。舌先からじんと痺れが走り、鼻が香ばしい匂いに反応した。もうひと口含んでようやく身体の感覚がすべて戻ってきたような気がした。 「学奨の結果が出たんだ。俺はダメだった」  一歩は数度まばたきをしたあと、静かに「そっか」とだけつぶやいた。 「学奨は、特に一年目の採用は研究業績の影響が大きいって言われてるんだ。論文一本には国内会議も、ちょっとした表彰も、束で出しても勝てないらしい。俺は国内会議はたくさん出してるけど主著論文が一本もない。でも……よく考えたら高梨は一本持ってたんだよな」 「それってもしかして、高梨は採用されたってこと?」  うなずくと、一歩は小さくため息をついた。考え込むように首を傾け、視線を落としている。 「高梨って――」ずいぶん時間が経った後で、ためらうように一歩が口を開いた。 「本配属よりも前から研究室に押しかけて、早く研究させてくれって久住先生に無茶言ったりしてたんだよね。それで平日休日関係なく朝早くから夜遅くまで研究室に来て、四年の秋頃にはもう論文を書き始めてた。だから気になって『どうしてそんなに焦ってるの?』って聞いたことがあるんだ。なんかもう、鬼気迫る感じだったからさ」  ことり、とマグカップをテーブルに置いて縁を指でなぞっている。 「そしたら、『少しでも早く追いつきたいんです』って答えたんだ。何にって聞いても肩をすくめられただけだったけど、見ていたらすぐにわかったよ。高梨って、迅がゼミで発表するときとかすごい食いつくようにメモとってるし、迅の実験とかめちゃくちゃ観察してるの。盗めるものは全部盗んでやるって感じでね。それなら話しかければいいのに、そこはプライドがあったのか全然話そうとしないから迅も気づいてなかっただろうけど」  追いつく――いつか高梨自身がそんなことを言っていた。  俺はあいつにとって目標だったということか。少なくとも、今日までは。 「追いつくもなにも、とっくに追い越されてるじゃないか。あいつは修士も早期修了して、学奨まで取って、このあとだって順風満帆に博士号をとって就職してさ。でも俺は――」 「高梨は高梨。迅は迅。迅が本当にやりたいことを成そうとしたときに、高梨がどう進もうと()()()関係ないはず……だよね?」  何も言えず黙っている俺を、一歩はじっと見つめて小さく首を横に振った。 「……とにかく今は人のことより自分のことを考えないと。早めに先生に相談したほうがいいんじゃないかな」  一歩に引っ張られるようにして研究室へ戻ったとき、学生居室はなぜかざわめいていた。 「一歩、ナイスタイミングじゃん!」  俺より先に居室に入った一歩に武が声をかけた。その声がやけに浮足立っているのに気づき、俺は足を止めた。扉は目の前で静かに閉まる。中から陽気な声が届いた。 「高梨が学奨に受かったから、みんなで焼肉奢ってもらおうって話になったんだよ。よく聞く学奨焼肉ってやつだ」 「タケちゃん、それは……」 「ま、俺たちもあとで祝いの品を用意してやるけどな。そういや迅は? あいつも受かってるだろうから、まとめて奢ってもらうか!」  学奨に受かったら焼肉を奢る。なぜか世間に広まっている慣習だ。まだ金をもらえているわけでもないのに、周囲の人間がやっかみと祝福を込めて無茶ぶりのように合格者へたかるのだ。とはいえ、たかられる側だってまんざらでもないだろう。あてにすべき金は近い将来確実に手に入るのだから。  踵を返して歩き出す。後ろで扉が開く音がした。 「迅、待って……」  一歩の声が廊下に弱々しく響く。俺は振り返らずに歩き続けた。  * 「……なに、やってるんですか?」  高梨が目の前で立ち尽くしている。 「なんだ、もう帰ってきたのか。おまえの奢りで焼肉に行くって聞いてたんだけどな」 「質問に答えてください。なにやってるんですか?」 「なにって、見りゃわかるだろ」 「じゃあ質問を変えます。なんで荷物をまとめてるんですか?」  来たときと同じように、ボストンバッグとリュックを広げて服を詰め込んでいた。俺の私物収納用にと高梨がもってきた箱は、すでに空になっている。最初から変わらず、俺の持ち物は少ないままだ。 「……次のアパートの目処が立つまで、なんて言ってたのは学奨に受かることが前提だったようなもんだ。でも受からなかったんだから、博士課程でも奨学金を借りなきゃいけないのは確定だし、今から追加で借りたって大して変わらない。それならさっさと借りてここを出ていくべきだろ」 「どうしてですか! 追加で奨学金なんてもらわなくても、うちに居たらいいって言ったじゃないですか。お互いにとっても二人で生活したほうがいいって話をしていたでしょう!?」  二人で生活するのがいい。ただし、それを継続するには前提条件が必要だ。「期間限定」で、近いうちに借りは返せる。そう思っていたから今だけはと自分の中でも妥協できていた。  今となってはその妥協点も崩れ去ってしまった。いや、ここ最近はそんなこだわりすら忘れていたのかもしれない。高梨が許すままに甘えていた。とんだ脳内お花畑状態だ。 「ずるずるとおまえに依存したくないんだよ。そんな情けないこと、俺はしたくない」  高梨はソファに座る俺の前に膝をついた。 「情けないなんて思う必要もないじゃないですか! 俺は迅さんと一緒にいれたらいいんです。学奨なんて関係ない」 「関係ない?」  急に身体の内側で突風が吹き荒れる。一歩に言われたときとは訳が違う。もどかしくて、悔しくて、心臓をかきむしりたくなる。 「関係ないはずないだろ! 俺は学奨に全部を懸けてたんだ。元から金に余裕があるおまえには、俺の気持ちなんか理解できないんだよ! 俺はおまえと一緒にいたら惨めになるんだ!」  高梨は大きく目を見開いて俺を見ていた。俺はその目を睨みつけたままバッグを掴んで立ち上がる。 「待ってください」  我に返ったように高梨が俺の手を引いた。この後に及んで腕の中に閉じ込めようとするのを突っぱねる。 「離せって」 「迅さんは……俺と一緒にいたくないってことですか」 「……そうだな」  手首に高梨の指が一瞬きつく食いこみ、次第に弱まっていく。 「わかりました。でも今すぐにこの家を出ていくのはやめてください」 「どういう意味だよ」 「しばらく俺が出ていきます。本当に出ていきたいなら、きちんと次の家を決めてから出てください」 「なんでおまえが――」 「お願いです。約束してください」  射抜くような強いまなざしに、俺はなぜか身動きがとれなくなった。  視線を俺に留めたまま、高梨が手を離す。足元に置いていた自分の荷物を掴み上げ、無言で背を向けて出て行った。
/36ページ

最初のコメントを投稿しよう!

260人が本棚に入れています
本棚に追加