第二章 14.その比較検証に根拠があるかを考えましょう

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第二章 14.その比較検証に根拠があるかを考えましょう

 腫れ物に触るように、どころか遠巻きに様子を窺われているような状態というのは、大変気まずいものだ。  学生居室に一歩踏み入れたときから、なにやら空気がおかしかった。後輩たちはもごもごと挨拶をして何事もなかったように視線を逸らした。白河が一度顔を上げてこちらを見たが、質問をしようかどうか迷って、どうやらやめることにしたらしい。俺が今そんなにも辛気臭い顔でもしているのかと、少なからずショックを受けた。  だから一歩と武が居室に入ってときには、思わずホッとして笑ってしまったくらいだった。 「おー、迅……元気そうだな?」  一瞬驚いたように目を見開いた武は、いつもと変わらず空いた椅子を勝手に引っ張ってきてどっかりと座った。 「まーあれだな。今回は残念だったな! 俺は受かると思ってたんだけどなあ!」  一歩は隣ではっきりと呆れた表情を浮かべている。俺は少しだけ笑みを向けた。 「適当なこと言うなよ、まったく」 「いやいや本当だって。でも来年もチャレンジできるんだろ? 次こそ受からないとだな!」 「そうだな。がんばるよ」 「よーし、その意気だ。それじゃ……景気づけにまた合コンでもするか!」 「ターケーちゃーんー!」  いきなり大声を出した一歩に、武はきょとんと首を傾げる。 「なんだよ一歩、おまえもそんなに合コン行きたいのか?」 「違うってば。迅はそんな暇ないの! そうでしょ、迅」 「え? うん、まあ……」  確かに合コンに行く暇どころか金もさっぱりないわけだが、一歩がそんなに焦るのはなぜだろう。 「タケちゃん、もう自分の居室に戻ったら?」  武を無理やり押し出そうとしている一歩を他人事のように眺めてしまう。その視界の端でディスプレイにポップが上がったのが見えた。メールの受信通知だ。英語がずらりと並んでいる。  既視感が襲いかかってきた。メールを開いて、リンクをクリック。まさに同じ手順を踏んだばかりで、まったく良い予感はしない。そしてこういう時に限って、予感というのは的中する。 「は、ははは……」 「どうしたの?」  戻ってきた一歩も横から画面を覗きこんだ。 「拒絶(リジェクト)、か……」  国際会議の結果だった。申し込みのあと、実験を追加してぎりぎりの締切に追われながら会議論文を書いた――高梨と一緒に。  申し込んだ国際会議は採択率三十パーセント。学奨よりも確率が高い。それなのに、国際会議すらも採用されなかった。  向いてないのかもしれない。自称研究者になんて世の中にはいくらでもいるかもしれないが、他から認められて、評価されてこそ研究をしている意味があるはずだ。自己満足で技術を生みだしても、使われなければゴミ屑と同じじゃないか。  少しでも前向きにと考えたいのに、ネガティブな考えばかりが頭の中を侵蝕していく。 「進学もやめたほうがいいのかな」 「それは……」 「いや、今さら無理なんだけどさ。さすがに自信なくすよ」  思わずこぼれたのはまぎれもない本音だった。自信がない。武には来年もチャレンジしてがんばると答えたが、このままずっと結果が出なければ次だって受かるはずがない。  がちゃりと扉が開く音に振り返ると、久住が居室の中を覗きこんでいた。 「朝木は……いるな。今ちょっといいか」 「はい」  一歩が俺の肩に軽く手を置く。心配の文字が浮かぶ一歩に向かってぎこちなく笑みを浮かべた。  教員居室の中は、いつも通り綺麗に整頓されていた。大抵の教員は片づけ無精で、棚からファイルが飛び出し、書籍やレポート用紙が山積して今にも土砂崩れが起きそうになっているのが普通だから、やはり久住は変わった部類に入ると思う。  椅子を勧められて座ると、久住は小さく息を吐いた。 「国際会議の結果だが……共著の私にもメールが来たんだ」 「そう、でしたか。学奨に続いて結果を出せず、申し訳ありません」 「申し訳ない、だって?」  怜悧な顔立ちが険しくなった。鋭い視線に晒されて緊張で身体が強張る。 「今回の論文も朝木ひとりで書いたわけじゃない。私は指導者であり共著者なんだ。評価されなかったのなら私にも責任がある。――ただしそれが、正当な評価であれば。査読者(レビュワー)のコメントを読んだか?」  俺は首を横に振る。『リジェクト』の文字だけを見て絶望していただけだった。久住は苛立たしげに脚を組み替えた。 「査読者Aはほとんど読んでいないのかってくらいとんちんかんだし、査読者Bのコメントなんて正直あれはいちゃもんだ。私のほうから編集者(エディター)に抗議を出してはみるが……残念ながら、抗議なんてのは滅多に通らないものなんだ。軽くあしらわれて終わるだろうな。まったく、採択率三十パーセントなんて謳い文句は傲慢な査読者のエゴで成り立ってるんじゃないか」  久住がこれほど怒りをあらわに話し続けるのはあまりにも珍しい。仰天している俺に気づいたのか、久住は軽く咳払いをした。 「こんなことを言ったら負け惜しみだとか思うかもしれないが……それは違う。やたらに厳しすぎるとか、適当すぎるとかいうハズレの査読者に当たるということはたまにあることだ。そういった偏りをなくすために複数の査読者を通すわけだが、今回は運が悪かったと思うしかない。もちろんぎりぎりで実験をしたのもあって粗い部分もあったし、改善すべき点もあるのは確かだが、適切に修正して別の場所で発表すればいいはずだ。だから必要以上に落ち込まなくていい。わかったか?」 「はい……ありがとうございます」  久住は嘘をつかない。ゼミや指導のときだって本当にダメなら「つまらん結果だ」とか「論理の一貫性に欠ける。全部書き直し」とか平気で言ってくるものだ。だから俺をかばうとか、慰めるとか、そんなことのために言っているわけではないのだろう。  そうは言っても簡単に気分が晴れるものではなかった。リジェクト――拒絶、拒否、却下。違うとはわかっていても、この一単語は自分自身の人格まで否定されているように感じてしまう。  何か考え込むように俺をじっと見つめていた久住が、おもむろに口を開いた。 「念のため確認するが、進学をやめるとか言い出さないよな?」  頭の中を見透かされたような気がして息を止めた。返事をできずにいる俺を前に、久住は渋い表情になる。 「進学をやめるどころか、研究室や大学まで変えるとかいうやつまでいるが……学奨ひとつで今後の全ての評価が決まるわけじゃない。それにまだ一回目だろう。来年もあるんだから、そう悲観するなよ」 「そう、なんですけど……でも俺、向いてるのかなあって心配になってきたんですよね。このまま博士課程に行っても、まともに研究職につけるのかなって」  できる限り軽い調子で言ったつもりだが、久住の表情は和らがない。 「まあ一番向いてるのは、向いているかどうかなんて考えもしないようなやつだな。周りの評価なんか気にせず、自分のやりたいことしか目に入っていないってくらいのほうが、研究者としてはうまくいったりするもんだ」 「やっぱり……」  一瞬高梨の姿が頭をよぎる。ただひたすらに、誰ひとり寄せつけない空気をまといながら黙々と研究に取り組んでいた。高梨はどう考えても研究者に向いている。そして俺は、きっと―― 「そう早まるな。向いているかどうかなんて他人には判断できないものだ。そんなことよりも、腹をくくれるかどうかのほうが重要かもしれない。昔は博士号なんて『足の裏の米粒』と言われていたが、最近はアカデミアの道に進むなら博士号を取る以外に選択肢はないからな」 「腹をくくる、ですか」  実際に教員の立場から言われると重みが違う気がした。三十歳の手前まで、時間も金も費やす必要があるにも関わらず、食っていけるかわからない。それを覚悟の上でこの道を進まなければいけないということだ。わかっているはずだったのに、自分の中の芯が揺らいでいるように感じてしまう。 「学奨がないのは金銭面でも辛いだろうし、迷いが出るのは当然だろう。だが博士課程に進んだら、私がリサーチアシスタントとして雇うことができる。今のTAよりは多少給料を上げられるし、代理で授業も任せることができるから教育の経験を積むこともできる。大学でも他に支援制度があるかもしれない。もう一度よく調べて、考えてみなさい」 「わかりました」  頭を下げて出て行こうとする俺に久住が思い出したとばかりに声をかけた。 「国内会議の発表が近いだろう。気落ちせずに、しっかり準備をしておくようにな」 「はい。……あの、先生」 「なんだ?」 「国際会議の結果、高梨はどうだったんですか?」  一瞬の間が空いた。それだけで答えは既に明確だった。
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