第二章 15. 咄嗟の判断は大事故につながります

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第二章 15. 咄嗟の判断は大事故につながります

 鍵を開ける小さな物音で目を覚ました。目を開いても、あたりは完全な闇の中だった。息を殺して気配を探る。そっと歩みを進めるような音が聞こえる。  リビングのドアが開いたとき、緊張が最大限に高まった。飛び起きたほうがいいのか、寝たふりを続けたほうがいいのか。背を向けているせいでまったく状況がわからない。逡巡しているうちに、「迅さん」と声がかかった。 「寝てます、よね」  肩から一気に力が抜ける。だがそれを悟られたくはなかった。規則正しい呼吸を意識すると、余計に不自然な気がしてくる。 「よかった……ちゃんとうちにいてくれて」  ため息のようなささやきが耳の上に降ってきた。こめかみのあたりの髪に触れているのがわかる。指先が耳の端をかすめ、そっと頭をなでていく。  俺が息を呑むのと、高梨が息を吐くのが同時だった。そのおかげか、高梨はなにも気づく様子もなく立ち上がった。静かに気配が離れていき、ドアが閉まる。  心臓が痛い。  身体を丸めても、鼓動は一向に落ち着かない。  高梨のことを心底妬ましいと思っていたはずだ。そんな自分があまりにもちっぽけで醜いということも、わかっている。それなのに、穏やかな声を聞いて、優しく触れられて、俺は安堵してしまっている。 『保証人がいない、ですか? 一人も?』  不動産屋の担当者の怪訝な顔が浮かんだ。  てっきり奨学金と同じように、手数料を払えば業者保証ができると思い込んでいた。そう話すと、アパート契約はほとんどの場合保証人が必要だと説明された。ほんのごく一部の業者保証ができる物件でも、奨学金とは比べ物にならないほど高額の手数料がかかる。追加の奨学金を見込んでも、現実的な話ではない。  だからこうして、今ものうのうと高梨の家で過ごしている。口ではなんと言っても、ほかに行くあてもない。一番甘えたくない人間に甘えているという状況が、あまりにもみっともなくて、死にそうなほど息苦しい。  ぐるぐると頭の中で考えて、ほとんど眠れていなかったはずなのに、部屋全体が薄明るくなったことに気づいたときには高梨の姿はなかった。  起き出して早々に研究室に向かったが、ここにも高梨はいない。一人、二人と学生が増えてきて、居室がだんだんと賑やかになってくる。 「迅、昼飯食おうぜー」 「え……ああ、もうそんな時間か」  武に声をかけられて初めて昼時になっていることを知った。画面の中の発表スライドは、ようやく修正が終わろうとしていた。いつのまにか一歩も隣でひょっこりと顔を出している。 「久しぶりに学食でいいか?」 「そうだな」  データを保存してスリープモードにしている間に、せっかちな武はすでにドアのほうに向かっていた。 「置いていくなって――」 「おう高梨、こんな時間に来るなんて珍しいな!」  開いたドアの向こう側で高梨が驚いた表情で立っていた。後ろから追いかけていた俺と視線がかちりと合う。 「今から学食行くけど、おまえも来るか?」  隣に立つ一歩がちらりと俺のほうを見たのがわかった。  久しぶりにまともに高梨の顔を見た気がする。家主が家を出ていて、今どこで過ごしているのかも知らないなんて、どう考えても変な状況だ。  やっぱりもう一度話をしなければ。口を開こうとしたとき、高梨が俺から視線を逸らした。 「昼は食べてきたので大丈夫です。ありがとうございます」 「そうか? じゃ、俺たち行ってくるわ」  うなずいた高梨は俺に目を向けることもなく、するりと横を通り抜けた。 「だいぶ秋らしくなってきたなあ」  ガラス張りの食堂からは、大きな銀杏の木が一本見えていた。日当たりのよい部分が黄色く染まり、突き抜ける青空に彩りを添えている。ただし武が言っているのは外の景色ではなく、学食に並ぶメニューのことだ。どん、と置かれた盆の上には温かい蕎麦と、さつまいもとかぼちゃ、マイタケの天ぷらが並んでいる。隣に座る一歩も、きのこ盛りだくさんのクリームパスタとかいう洒落たものを選んでいた。どちらも十月頃から出る秋限定のメニューだ。 「おまえは相変わらずかけうどんかよ。しょうがねえな、天ぷら一個やるから食え」 「……さんきゅ」  かけうどんにはねぎと天かすはたっぷり入れてもらっているが、他に具はない。腹は膨れないが、とりあえず空腹はしのげる、そんなものだ。うどんひとつをとっても学食は外で食べるよりはずっと安いから、その点はありがたかった。とはいえ、無駄遣いを極力なくさなければと思ったところで武や一歩に気を遣わせてしまっているようではダメだと情けなくもなる。 「そういえばさっきスライドの準備していたけど、そろそろ発表だっけ?」  ひと心地ついたように息を吐いて、一歩が切り出した。 「明日からだよ」 「明日? ゼミでの発表練習は一回しかやってない気がするけど……」  一歩の言うとおり、二週間ほど前に一度発表練習をしたあとでこまかな修正を指示されていた。一回目の出来が余程ひどかったり、時間に余裕がある場合は二回目の練習をすることもある。今回にいたっては、時間には余裕があっても気持ちにまったく余裕をもてなかった。久住からも特になにも言われていなかったが、もしかしたら俺の状況に気遣って練習を免除してくれたのかもしれない。 「まあ、研究会規模だし大丈夫ってことだろ。一人で行くんだっけ? 二日間?」 「そう。先生方は別の会議の委員会と被ってるらしい」 「いいなあ、交通費も宿泊費も学科から出してもらえるんだろ? 実質タダの一人旅じゃん! ちょっとくらい観光とかもできるんじゃないのか?」  今まで大抵の学会には先生たちが来ていたし、直前まで発表練習をしたり、親交のある他大学の先生や学生を交えた飲み会があったりと、地方の学会に行ってものんびり観光をするような時間もなかった。今回は一人だ。学会公式の懇親会はあるかもしれないが、武の言うとおり、少し早目に抜け出して街を歩くことくらいはできるかもしれない。でも…… 『街を歩くだけでも楽しいと思うんですよね』  高梨と交わした会話を思い出す。イタリアの歴史が色濃く残る街を二人で歩く話をしていたのは、ほんの二ヶ月足らず前のことだ。写真で見た青空、オレンジ色の屋根、白亜の建造物。鮮やかな色彩は、今も脳裏に焼きついている。  二人ならきっと楽しい――なんて、どうしてそんなことを考えてしまったんだろう?  二人でいることが当たり前のように勘違いしていただけだ。  毎朝寝起きにおはようと言い合って、向かい合っていただきますと手を合わせて、ただいまと言えばおかえりと返ってくる、そんなことが俺の日常になるはずがない。  高梨も、俺も、すでに一緒にいる理由なんてないのだから。  *  また高梨が家に戻ってくるかもしれないから、少しでも早く出発しよう。そう思って夜明け過ぎに起き出して身支度をしていたのに、家を出る直前になって玄関のドアが開いた。 「今日から学会、ですよね。もう出るんですか?」  高梨が立ちふさがるように目の前に立った。 「ああ。急いでるんだ、どいてくれ」 「まだ早いですよね。話したいことがあるんです。少しだけ時間をください」  掴まれた腕を見下ろす。高梨もつられて視線を下ろし、はっと力を緩めた。スーツに皺が入ったことに気づいたらしい。武や一歩のように洒落たものではなく、入学式のときに慌てて買った真っ黒の安いスーツ。もちろん替えなんて持っていないから、これをダメにされると困るのは高梨も知っているはずだ。 「なんだよ、話って」 「国際会議のことです……イタリアの」 「……俺には関係ない話だな」  嫌な話題をわざわざ出してくるなんて最悪だ。苛立ちがふつふつと湧き上がる。横をすり抜けようとしたのに、高梨が目の前で壁に手をついた。 「辞退しようと思うんです」 「……は?」 「二人で行こうって言ったから。俺一人が行くんじゃ意味が――」 「ふざけんじゃねえよ!」    一気に頭に血が上る。視界が、指先が震えている。 「まさか俺のためとか言うんじゃないだろうな? どこまで俺のことを馬鹿にすれば気が済むんだよ! 俺だけじゃない、学会のことも研究のことも舐めてんだろ、おまえは!」 「そんなつもりじゃ……」 「そうじゃなきゃなんだ? 良い評価がもらえたからって自分勝手なことして許されると思ってるのかよ。与えられることが当然だと思っているからそんなことを言えるんだ」  かすれた自分の声が酷く耳障りだった。にじむ視界を振りはらうように首を振る。 「何ひとつ不自由のない生活も、好きなことをできる環境も、それを正当に評価されることも。俺にとっては、当たり前だったことなんて一度もないんだよ!」    高梨が目を大きく見開いた。やっぱり、わかっていない。わかるはずがないんだ。 「やっぱり俺は……おまえとは相容れない」  すぐに出ていく。野宿でもなんでもいい。吐き捨てて目の前の高梨の腕を掴む。  小さな鈴の音が響いた。大きな手のひらに、同じ形の鍵が二つ重なる。  忌々しいほどまぶしい朝日の中を、俺はひとり駆け出していた。
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