第二章 16. ミスが続いたときは一度試験から離れてみましょう

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第二章 16. ミスが続いたときは一度試験から離れてみましょう

 全面ガラス張りのオフィスのようなツインタワー。これがキャンパスだというのだから、金がある大学というのはすごいんだなと月並みな感想が出てくる。  入口の横には学会名が書かれた看板が立てかけられていた。自動ドアをくぐり、壁に貼られた案内に沿ってエレベーターに向かう。開始時間よりはかなり余裕をもって来たはずだが、すでにネームタグをぶらさげたスーツ姿がちらほらと見えている。中には落ち着きなくあたりを見渡しながらポスターケースを抱えて座っている学生たちがいた。初々しい様子から見ると、四年生で初めての学会参加なのかもしれない。  俺が初めて学会に参加したのも四年生で、ポスター発表だった。そのときは自分のパネルの前で緊張のあまりがっちがちに固まっていたのを覚えている。そんな俺を見かねたのか、周りに集まってくれた人たちは普通以上に優しく質問をしてくれていた。今思い出しても少し恥ずかしくて苦笑いが漏れる。  ポスター発表の良いところは、聞きに来た人たちと議論をしやすいことだ。時間もたっぷりあって、その場でアドバイスをもらえる。多少受け答えがぎこちなくても、何度も質問を重ねてもらえばそれなりに話が弾む。その場で名刺をもらったり連絡先を交換することもできて、うまくいけば共同研究や就職の話に繋がることもある。  そんな理由もあって個人的にはポスター発表のほうが好きだが、今日は口頭発表だ。学校の授業みたいに聴衆の前に立って、決められた時間内で発表する形式で、最後にまとめて質問を受け付ける。学会の規模や雰囲気にもよるが、ポスターとは違って大勢の前で挙手してまで質問をしてくる人は少なかったりもする。逆に言えば、そんな静まり返った中で手を挙げてくる年配の人には注意しなければいけない。学会で与える賞の審査員をしている先生か――ただの癖の強い聴講者の可能性が高いからだ。  気を抜いて余計なことを考えないように、つらつらとひとりで考え続ける。そのうちに受付のテーブルが見えてきた。何人かの学生と、一人若い教員らしき人がいる。大学名と名前を言うと、「久住先生のところの学生さんだね?」とその教員に声をかけられた。 「はい、そうですけど、えっと……」 「ああ、ごめん。僕は芹沢って言います。久住先生には僕もお世話になっていてね」  胸元のポケットからさっと名刺入れを取り出す。渡された一枚には『助教 芹沢修司』と書かれていた。  顔を上げると、にっこりと微笑まれた。久住は怜悧な印象のハンサムだが、芹沢は目鼻立ちがはっきりとしたタイプのイケメンだった。この界隈の優秀な人間は全員顔も良いのか……と考えて、ふと高梨の顔が頭をよぎった。まったく、さっきまでの努力が水の泡になったようでげんなりする。   「すみません、俺名刺はまだ持ってなくて……」 「大丈夫大丈夫。そうだ、ちなみに今日きみが出るセッションの座長は僕だから、よろしくね」  座長というのは司会進行をする役割の人だ。なぜ俺のことを知っているんだろうと思ったが、進行をするために俺の予稿を読んだのだろう。 「こちらこそよろしくお願いします」 「楽しみにしてるよ。ちなみに今日、久住先生は……?」 「今回は他の委員会の会議と被っているので来れないそうです」 「そっか、それは残念」  笑顔を保ってはいるものの、本当に残念がっているように見えた。滅多に会えないのだろうか。芹沢は華やかな顔立ちだし、これまでの学会で久住と話していたりすれば記憶に残っていそうだが見覚えがなかった。久住に「世話になった」とはどういう関係なのだろう。  口を開きかけたとき、後ろに人が並んだことに気がついた。「じゃあまたあとで」と言う芹沢に会釈を返し、その場を離れた。  *  秋も深まってきているとはいえ、暖房はついていない。それなのに顔が火照り、背中から汗の雫が伝っておりていくのがわかる。 「素人質問で恐縮ですがね――」  この枕詞から始まった時点で、最大レベルの警戒をしていた。「素人」「知識不足」「基本的な質問」なんて言葉は、学会という場では決して信じてはいけない。その言葉を並べてにこやかに笑う人ほど、専門的でえぐってくるような質問をしてくる――目の前の白髪の男のように。受付前の懸念が見事に的中していた。  俺の実験結果にどうも納得がいかないらしい。データの取り方も重ねて説明したのに、処理の方法にまで細かくツッコミを入れてくる。途切れることのない詰問に段々と頭が回らなくなってくる。  焦っているのにはもう一つ理由があった。質問、というよりも指摘されていることが、先日拒絶された国際会議論文のレビューと似ている気がしたからだ。もしかしてこの人が、と思い始めた途端、思考が凍りついてしまった。いや、もしかしたら審査員かもしれない。それならなおさら早く回答しなければ。 「……ですから、それはT大の小林先生の文献に記載の手法を参考にしていまして――」 「おかしいなあ、小林は僕の教え子だし、その手法は僕がアイデアを出したものなんだが。それじゃあ今回の発表の新規性はどこにあるのかね?」 「え……?」  頭の中が真っ白になった。業界で有名な小林先生は、学会や講演会で本人を見たことがあるから顔を知っている。そのさらに師匠にあたる先生が誰かなんて、知らなかったし考えたこともなかった。  「あの……えっと……」  口の中がからからに乾いてくる。自分の正しさを証明するための拠りどころを全否定された?  どうしよう、答えないと。でもなにを?  焦りばかりが募って、急激に視界が狭くなってくる。ずぶずぶと足元から深淵に飲み込まれていく。 「熊ヶ谷先生、少々よろしいですか?」  しんと静まり返った会場内に、一滴の雫が落とされた。飄々とした声は俺の左前方――最前列の座長席からのものだった。受付で挨拶をした芹沢が立ち上がっている。 「朝木くん、スライドの五ページ目をもう一度見せてくれるかな」  朝木くん、ともう一度声をかけられて、固まっていた俺は慌ててパソコンを操作する。 「今回の研究の目的をひと言で言えば、ロボットハンドの指先と対象物の形状や剛性に対して、ここに示されている制御パラメータと把持精度の相関を明らかにすることです。先生のおっしゃっている手法はあくまで検証のためのツールであって――」  時折俺にスライドを切り替えさせながら、すらすらと説明を続けていく。その間、熊ヶ谷先生と呼ばれた男も口を挟むことなく聞き入っている。 「細かいことは予稿にも書かれていますので、ぜひご参照ください。……ってことで合っているかな?」  茫然としている俺に向かって芹沢がにっこりと笑みを浮かべた。 「あっ……はい、その、とおりです……」  尻すぼみになっていく声があまりにも情けない。芹沢は小さくうなずいて立ち上がったまま時計を確認した。 「申し訳ありません。そろそろお時間となりますので、質問を終了させていただきたいと思います。熊ヶ谷先生もよろしいですね?」  俺へと向けられた視線はあきらかによろしくなさそうだったが、座長に時間だと言われれば従うしかない。眉間の皺を深めたまま腰を下ろしている。俺は「ありがとうございました」と消え入るような声とともに頭を下げ、ふらつく足を必死に動かして壇上から降りた。  懇親会会場と案内された場所は、最上階にあるレストランだった。もちろんここもガラス張りで、街の明かりが足元で星屑のように輝いている。普段は学生の食堂としても使われているらしい。すでに中は人であふれかえっていて、乾杯の挨拶も終わったのか酒を手に談笑が始まっている。  いつもなら懇親会は他の大学の学生や先生とも交流できる貴重な機会な上、こんなに豪華な場所で晩飯も済ませることができて一石二鳥、なんて思っていただろう――少なくとも今日の発表が終わるまでは。  俺は無意識に「見知った顔」に会わないように顔を伏せていた。同じ分野で発表をしていれば何度も顔を合わせることもあるし、質問をしあったりアドバイスをもらったりする中で親しくなる学生も多い。この懇親会はもちろん、俺の発表会場にもきっといたはずだ。  自分の研究の発表なのに、質問に対して自分でうまく答えることができなかった。初参加の学部生ならともかく、三年目にもなって何をしているのだろう。ありえない失態を見られたかと思うと、恥ずかしくて誰とも会いたいとは思えなかった。  それでも申し込みの時点で参加費は払ってあるし、と言い訳がましく足を踏み出す。人が群がるビュッフェ台に近づいたとき、聞き覚えのある声と白髪頭が目に入った。 「お久しぶりです、熊ヶ谷先生」 「おお、元気していたかね」  堂々とした背中を目にすると足がぴたりと止まってしまう。怖気づいた。そう自分で気づいた時点でため息がこぼれた。 「あれっ、もう帰っちゃうの?」  背後から明るい声が届いた。一番後ろから静かに出ようとしていたところをまんまと見つかってしまった。ざわめきの中からグラスを片手に芹沢が歩み寄ってくるのが見える。今の今まで気づかなかったが、芹沢は背も高く、会場の華やかな雰囲気にスリムなスーツ姿がよく似合っていた。話しかけられて無視するわけにもいかず足を止める。 「せっかく料理もたくさんあるんだから、食べていけばいいのに」 「いえ……大丈夫です」  失礼します、とそのまま踵を返そうとしたのに、もう一度呼び止められる。渋々顔を上げると、芹沢はなにか考えを巡らせるように顎に手を添えていた。 「あと五分……いや、三分ほど待っていてもらえるかな。会場の外のエレベーターホールで会おう。いいね?」  なんのために、と問いかける間もなく芹沢は片手を上げて足早に去って行った。
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