第二章 17. 行き詰まったときには新しい視点を取り入れてみましょう

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第二章 17. 行き詰まったときには新しい視点を取り入れてみましょう

「そっか……同期、じゃなくて後輩が学奨に通って、自分が通らなかったっていうのは確かにショックだろうね」  正面の席でうんうんとうなずく芹沢の表情は暗くも明るくもなく、いたって普通のことといったような反応だ。俺はそれを見ても不思議とへこむことはなかった。大袈裟に同情されたり、笑い飛ばされるよりも当たり前のように受け止めてもらえるほうが居心地がいいのだと気づく。  懇親会で芹沢に呼び止められたあと、戻ってくると言った芹沢を待たずに黙ってホテルに帰ってしまおうかとも考えた。とはいえ、明日も一応学会は続くし、確実に顔を合わせるのに失礼なことをするわけにはいかないと思い直した。  本当に来るのだろうかと半信半疑のまま、会場を出て数分待っているうちに、芹沢は鞄を持って現れた。 「良ければ飲みに行かない?」  さらりと軽い調子で言われたせいか、俺はあっけに取られてうなずいてしまっていた。  芹沢はさくさくと歩いていき、特に迷う様子もなく会場近くの居酒屋の暖簾をくぐった。移動時間が短かったというのもあるが、土地勘のない場所ではついていくのに精一杯で、特に会話をすることもなく席に座ってしまう。今日会ったばかりの、他の大学の教員と二人きり。あまりにもよくわからない状況で、完全に相手のペースに飲みこまれている。  だがビールを頼んですぐに、俺は重大なことを言い忘れていたと気づいた。 「あの、先生……今日は本当にありがとうございました!」  そう言って頭を下げると、芹沢はいやいやと俺の肩を叩いて顔を上げさせた。座長とはいえ、部外者があまり口出しをしないほうがいいかと思って最初は傍観していたこと、それでも久住がいないなら誰かフォローしてあげるべきだと思ったことを俺に告げる。 「熊ヶ谷先生は一応名誉教授ってことで現役は引退してるんだけど、ああやって時々学会に顔を出しては若者にちょっかいを出すんだ」  運が悪かったね、と言われた途端、俺は深々とため息をついてしまった。「なにか他にも困ったことでもあったのか?」と問いかけられて、いつの間にか最近の状況をつらつらと話してしまっていた。身内でも、友人でもない誰かに話を聞いてもらうことがこれほど楽なことだとは思わなかった。身体の中で滞っていた澱がするすると溶けていくような気さえする。 「学奨、僕も一回目で落ちたんだよね。だからきみの気持ちはよくわかるよ」  それまで黙って話を聞いていた芹沢が何気なく言い放った。その言葉の意味を理解するのに三秒ほど必要だった。思わず前のめりで顔を凝視してしまう。芹沢は大きな目をわざとらしく丸くした。 「なんだい、そんなに見つめられると照れちゃうなあ」 「あっいや、すみません……って、そうじゃなくて! 落ちたって、本当ですか? どういう業績で応募して、どういう評価を受けたんですか?」  驚いた芹沢の箸から炙りエンガワがぽろりと落ちる。箸を置いてかしこまると、芹沢は小さくため息をついた。 「もう忘れちゃったけど……たしか査読付き国際会議論文一本はあったと思うよ。計画書もそこそこうまく書けたとそのときは思っていた。それでも落ちたのは、単純にそれだけじゃ不十分だった、他の受かったやつらは僕よりも業績があって計画書も完璧だったというだけの話だ」  そのとおりとしか言えない。高梨は俺よりもよくできていた、ただそれだけ。身体が重く沈み込むような錯覚に、頭が自然と下がってくる。 「……っていうのは事実としても、悔しいものは悔しいよなあ。しかも目の前に受かった人間がいたりすると、自分が余計にダメな人間みたいに思えてくる。きみもそうなんだろう?」  顔を上げると、芹沢は懐かしむような笑みを浮かべていた。 「俺の場合は、ダメな人間みたい、じゃなくて本当にダメなんです」  絶え間なく浮かんでは消えていくビールの泡をぼんやりと見つめた。頭の中で同じようにふつふつと負の感情が湧き起こる。 「高梨は後輩で、最初は俺に追いつきたくてがんばってたって言ってたんです。でも高梨は飛び級して、その上学奨も難関の国際会議も受かって……俺なんかよりもずっと前に進んでいってる。俺だって自分なりにがんばっているつもりだったけど、高梨みたいに結果を出せていない。今日だって国内会議なのにいつもならありえないくらいテンパって、あいつだったらこんなことにはならなかっただろうなって思うと本当に俺はダメだなって……追いつきたいどころか、とっくに追い越されてるのが情けないっていうか……それで高梨にもキツく当たってしまって……」  自分で言葉にするとますます身に染みてくる。高梨への態度が過敏すぎるという自覚はあった。目の前にいるから、どうしても比較してしまう。それなのに近くにいると、優しさにすがってしまう。自分でもどうしたらいいか、一体なにに対して苛立っているのかわからなかった。 「きみはよっぽど、その高梨くんの『憧れ』でいたかったんだね」 「え……?」 「他の誰でもない『高梨』をすごく意識しているみたいだ。年上だからとかいうプライドもあるんだろうけど、憧れられることで承認欲求が満たされていた。追い越されてしまったら、自分に興味が向かなくなる。志の高い高梨くんは自分ではない誰かを追いかけるようになる。そしてそれがきみは怖い……違うかな?」  カッと顔に血がのぼる。言葉がなにも出てこなかった。「承認欲求」だなんて、そんなことは―― 『今まであなたに追いつこうと必死だった』 『俺を救い出してくれた恩人なんです』  純粋に年下の高梨に負けて悔しい。この分野じゃ俺の方がずっと先に取り組んでいたというプライドがあった。  でも今のままでは、自分ではない誰かを追いかけるようになる。研究でも――それ以外でも。 『ずっと好きだったんです』  高梨が俺を好きだったのは、俺があいつの前を走っていたからなんじゃないか?  一緒に海外に行きたいとか、俺が当然受かると思っていたから提案したんじゃないのか。  学奨もダメ、論文もダメ。そんな人間を、あいつが追い続けたいなんて思うはずがない。  こんな俺を、好き、だなんて思うはずが。 「え、あっ朝木くん!?」  驚いた声にびくりと肩が跳ねる。生温かい雫が一筋、頬を伝い落ちていった。 「すみません、もう酔っ払ったみたいです……ははっ」  ごしごしと顔を拭う。なんで涙なんか出てきたんだ。芹沢と目を合わせることもできず、ビールジョッキを抱えこむ。 「ごめん、僕も言いすぎたね。でもきみを見てると、なんだかもどかしくてさ」  どういう意味かわからず上目遣いに見ると、芹沢は頬杖をついて俺を眺めていた。 「きみの気持ちがわかるって言ったけど、僕はその『高梨くん』の気持ちもわかる……気がするんだよね。追いかけられる側は、追いかけているほうの気持ちなんてわかっちゃいないんだよなあって」  焼き鳥の串を持ち上げてヤケクソのように豪快に頬張る。綺麗な顔に似つかわしくない仕草だ。ぽかんとしている俺に向かって目を細めた。 「追いつきたかったって彼は言ったんだろう? そう簡単じゃない飛び級もがんばれるくらい、きみの存在は大きかったはずだ。しかもそれを成し遂げたってことは、彼の覚悟も本物だったって証拠だろう。たった一度や二度の失敗だとか、立場の違いとかで変わるような、そんなやわな想いじゃない。それなのに()()()()()()()っていうのは、こっちの気も知らずに頑固で、意地張ってばかりで、身勝手に突き放してきたりして、本当に腹が立つっていうか――」 「あの……それって……?」  深く刻まれた眉間の皺が不意に緩んだ。 「ん? ああ、いや……すまない、こっちの話だ」  誤魔化すように咳払いをしてビールを呷っている。 「とにかく、きっと朝木くんが思っているほど、彼はきみのことを見損なったりなんかしていないはずだよ。それに落ち込んだり、諍いを起こしている暇もないはずだろう? 悔しいなら、それこそ死ぬ気でがんばらないといけないよ。つまらないプライドも捨てて、高梨くんに頼ってでも次こそ合格する。それが今のきみがやるべきことだろう。いつまでも意地を張っている場合じゃないよ」  受かった人の計画書を見ることはなかなかできないし、アドバイスも素直に受け入れたほうがいい。そう言われると、芹沢はあくまで研究のことを心配しているというのがよくわかった。芹沢は俺と高梨の間に()()()()()()()()があるなんて知るはずもないのだから当然だ。それに、現実的な生活の問題も。それをすべてごちゃ混ぜにして、一人でぐるぐると落ち込んだり苛立ったりしていたと気づく。完全に冷静じゃなくなって、全部高梨にぶつけていただけだ。  さっきとは別の理由で、じわじわと顔が火照ってくる。恥ずかしい。謝りたい。少なくとも、きちんと自分の感情に向き合って、高梨と向き合って、二人で話をしたい。 「朝木くん?」  顔を覗きこまれて慌ててうなずく。「きみは素直でよろしい」と芹沢は満足気に笑った。  それからは、なんとなく胸が詰まってしまって箸も酒もほとんど進まなかった。そんな俺の空気を察したのか、トイレに行っている間に芹沢が会計を済ませてしまっていた。その上店の前で別れると思っていたのに、酒を飲ませてしまったし、どうせ同じ方向だからとホテルまで一緒に歩くことになった。  ゆっくりと歩きながら、ひとつだけ気になることを口にする。 「ちなみに、学奨一回目のあとはどうしたんですか?」 「どうって言われても……まあいろいろあって、別の大学に移ったんだよね」  そういえば久住も「大学を変えると言い出すやつもいる」と言っていた。環境を変えるというのも手段としてはあるのかもしれない。そんな俺の考えを見透かしたように芹沢は眉を吊り上げた。 「でもおすすめはしないよ? 結局研究もテーマ立ち上げから全部やり直さないといけないし、人間関係もうまくいくとは限らないから」  受け入れ先の先生が学会や面談のときには良い印象だったとしても、実際に所属してみたらブラック研究室だった、ということも充分にありうる。博士課程の学生は半分は先生のアシスタントを担うことも多く、肝心の論文を出す暇もなく雑用ばかり任されることもある。自分の研究を丸ごとかっさらっていく先生もいる。外部から来た学生をつま弾きにして、実験装置を使わせてくれないという話も聞いたことがある。そんな風に芹沢はつらつらと事例をあげて、「少なくとも慎重に選んだほうがいい」と苦笑した。 「でも久住先生なら、これからもしっかりと面倒を見てくれるだろう。あの人は負けず嫌いだし、きみ以上に次こそはって思っているだろうからさ」  久住のことを本当によく知っているらしい。またしても考えが顔に出ていたのか、芹沢がくつくつと笑った。 「言っただろう? 久住先生にはとーってもお世話になったんだって。その恩返しってわけじゃないけど、僕もきみのことは応援するよ。今後も、ね」  いつのまにか宿泊するホテルの目の前に来ていた。振り返った芹沢がにっこりと微笑み、俺の肩にぽんと手を置く。一瞬、冷たいビル風が吹き抜け、乱れた髪に指先が触れた。 「その手、離してもらっていいですか?」    背後から覚えのある声が聴こえた。なぜか絶対零度の冷え冷えとした低い音で。 「高……梨……?」  ここにいるはずのない男が目の前に立っていた。
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