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第二章 18. 自分の中の常識を取り払いましょう
「ああ、きみが高梨くんだね」
芹沢は浮かせた手をそのままひらひらと振っている。
「迅さんが泥酔してるっていうのは嘘だったのか!? 一体どういうつもりなんだ!」
「泥酔って……どういうことですか?」
顔を上げると芹沢は肩をすくめて笑みを浮かべた。
「実は、さっききみに電話があったのを僕が勝手に取っちゃったんだ。ごめんね」
一体いつの間に、と思ったがトイレに行っている間以外には考えられない。それにしても泥酔という嘘までつくなんて、何を考えているのだろう。相変わらずにこにこと笑っているだけで、意図をまったく読むことができない。
「迅さん、早く離れてください」
「いや、でも……」
高梨がつかつかと歩み寄って俺の腕を掴む。芹沢は無罪を主張するように両手を上げた。
「それじゃ、僕はこれで失礼するよ。きみたちも……一度冷静になってよく話し合うんだよ?」
「え?」
くいと口の端を引き上げて俺の頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。「おいっ」とか「やめろ!」という高梨の焦る声をからかうように、鳥の巣のようになった頭をもうひと撫でして去って行った。
「高梨……おい、高梨!」
高梨は俺の腕を掴んだまま無言でエレベーターのボタンを押した。ようやく力が緩んだが、まだ手を離す気はないらしい。そのまま俺が泊まっている階とは違う階に降り、あっという間に知らない部屋の中へ引きずり込まれた。
「……誰ですか、あの人」
扉にもたれかかったまま、うつむきがちにぎりぎりと歯を食いしばる高梨を俺は茫然と見てしまう。
「あの人って……大学の先生だよ。今日のセッションの座長だった。久住先生とも知り合いらしい、けど」
会って話をしないと。そう思ったのはつい一時間ほど前のことだ。聞きたいこともあった。でも目の前に高梨がいるのに、肝心な言葉が出てこない。
「おまえは、なんでここにいるんだ?」
ようやく出た声はかすれていた。はっと顔を上げた高梨と視線が絡む。迷っているように瞳が揺れた。
「謝り、たくて」
高梨の白い頬がじわりと赤く染まっていく。
「国際会議を辞退する、っていうのは考えなしでした。迅さんの言うとおり、いつの間にか与えられるものが当然だと自惚れていたのかもしれません。それが、迅さんを傷つけることになるとは思わなかった。……本当にすみません」
「違う! ……違うんだ。高梨はなにも悪くない」
手が震えている。どうして俺は高梨に謝らせているんだ?
あまりにも自分が情けなくて、恥ずかしくて、頭に血がのぼりすぎて眩暈がしてくる。それでも今、きちんと伝えなければ取り返しのつかないことになる。
「謝らないといけないのは俺のほうだ。学奨も、国際学会も、高梨が努力して実力で勝ち取っただけ。その努力に俺が勝てなかっただけだ。頭ではわかっていたつもりなのに、俺は家のこととか、別の問題と重ねてひとりでパニックになって、おまえに対して自分勝手な態度ばかりとっていたんだ」
吐き出す息が細くなる。自分の過ちを認めることは怖い。でもそれ以上に、馬鹿なこだわりのせいで大切なものを失うほうがもっと怖い。
「それにくだらない承認欲求までおまえにぶつけて……」
「承認欲求、って?」
高梨が背筋を伸ばしたような気がした。今度は俺が顔を赤くする番だった。
「俺が高梨の前を走ってる間は、おまえが俺のことを追いかけてくれる。でも追い越されてしまったら、おまえはもう俺のことなんか……見向きもしなくなる。そう思うと――」
じっと見つめられているのは顔を上げなくてもわかった。俺の言葉を、待っている。
「――怖かったんだ。俺のほうこそ、おまえが傍にいることが当たり前だと思っていたみたいだ。でも俺はもう、おまえにとってそういう存在じゃない。おまえが俺のことを――好きでいる理由なんかない、って」
肌がひりつくような沈黙が漂う。すぐに後悔した。俺が今こんなことを言ったって、高梨を困らせるだけだ。芹沢は高梨が俺のことを見損なってはいないなんて言っていたが、そんなことはあり得ない。
何か言ってほしい。いや、何も聞きたくない。呆れた顔をしているだろうか。それとも、冷めた目で俺を見ているのだろうか。
不意に空気が揺れた。落とした視線の先で、高梨の足が一歩、二歩と近づいてくる。
両頬を大きな手のひらで包まれた。びくりと身体が跳ねてしまう。ひんやりとした指先が目尻をかすめた。
「それって……俺のこと、かなり好きって言ってるように聞こえるんですけど」
そっと顔を上げるように促された。真正面にある高梨の顔をまともに見ることができない。
手が首の後ろに回り、俺はすっぽりと高梨の腕に包まれていた。
「そんなくだらないことを気にしてたんですね」
「く、くだらないっておまえな……!」
「くだらないですよ。でもそれは俺がちゃんと伝えきれていなかったからなんですよね」
抗議しようと身をよじっても、かえって腕の力が強くなる。
「最初は、目標に向けてまっすぐに突き進んでいる迅さんに憧れたのがきっかけです。知れば知るほど、あなたみたいになりたいって思っていました。それが研究のモチベーションにもなっていたんです。でも……迅さんのことを好きになったのは、それだけが理由じゃないです。どんなに忙しくても後輩に丁寧に教えている姿とか、普段は真面目なのに松浦さんたちとくだらないことで騒ぐときの無邪気な顔とか、頭は良いのに変なところで抜けているところとか。一緒に生活し始めてからは、ご飯をなんでもおいしそうに食べるところとか、朝の寝癖がひどいところとか、全部可愛くて、どんどん好きになってた」
ゆっくりと身体が離れ、顔を覗きこまれた。有無を言わさず視線を合わせてくる。高梨の薄い色の瞳に俺の呆けたような顔が映っている。
「追いつきたいってしつこく言っていたのは……ただの独占欲です。迅さんと肩を並べれば、すぐ近くであなたを離さずにいられるっていうのが本音だから」
触れあった唇がじんと痺れる。鼻先と鼻先をすり合わせて、高梨がささやく。
「お願いですから、ひとりで抱え込んで、遠くにいったりなんかしないでください。夢をあきらめないで、手探りでも一緒に悩んで、進んでいきたい。あなたが俺の希望になってくれたように、俺もあなたの力になりたいんです」
どうして、そんなことを言ってくれるんだ。そう言おうと思ったのに、息を吐き出すので精一杯だった。高梨の唇が俺の頬の上を滑り、もう一度唇をとらえた。しょっぱい、涙の味がする。
「意外と泣き虫なところも好きですよ」
「う、うるさいっ……」
くすりと笑う吐息を俺のほうから塞いでやる。離そうとした唇は、そのままかぶりつかれてしまった。熱い舌先が歯列をなぞり、震える俺の舌を絡めとる。高梨が今も俺を欲している。そう感じるだけで、脳みそが溶けだしてしまいそうだった。胸がぎゅっと苦しくて、まともに息もできない。
「また息止めてる。せっかく練習したのに」
楽しげな微笑みだけで、心臓がありえない速さで跳ねてしまう。耳の端まで熱くなってくるのを誤魔化すように、俺は高梨の首に腕をかけた。
「じゃあ……おまえがもう一回教えてくれよ。最初から、ぜんぶ」
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