第三章 1. モチベーション維持のコツは人それぞれです

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第三章 1. モチベーション維持のコツは人それぞれです

「今日から森下研の助教として赴任することになりました、芹沢修司です。みんなよろしくねー」  久住研の学生居室はにわかにざわめいた。その真ん中で、俺はぽかんと口を開けている。 「あ、朝木くん! それからえーっと……」 「高梨です」  温かな空気をぴりっと裂くような鋭い声が響いた。にこにこと「改めてよろしくね」と言う芹沢に対して、高梨は素っ気なく視線を逸らす。 「迅、どういうこと?」  隣に立つ一歩が俺をつついた。この間の学会で世話になったんだと言うと、じゃあ高梨は? とまっとうな疑問をぶつけられる。 「まあ、いろいろあったんだよ……」  一歩は片眉を上げてしばらく俺を見つめたあと、まるですべてを了承したようにうなずいた。  学会から帰ったあと、俺は真っ先に一歩のところへ行って心配をかけたことを謝った。どういう心境の変化があったか、なんて話は一切していないが、一歩はただ笑って俺の肩を叩いてくれた。俺と高梨が普通に話しているのを見て最初は驚いた様子だったものの、これについても特に何を言われるわけでもなかった。ただなぜか、俺たちを見る視線が心なしか生温かいような……そんな気がする。あまりにも何も聞かれないものだから、まさかすべてを察しているんじゃないかと思ってしまうほどだ。そんなことあるはずがないけど。 「なんだ、騒がしいな……げっ」  顔を覗かせた久住が似つかわしくない声を発した。 「アキさん!」  閉じようとした扉の把手を芹沢がすかさず掴む。そのまま力づくで開かれた扉に引きずられるようにして久住が中へ入ってきた。いつもぴしりと姿勢の良い久住が、文字通り物理的に振り回されている様子に、俺たち学生は思わず目を丸くする。 「……芹沢先生。私のことは久住准教授と呼ぶようにと言ったはずですが」 「すみません、ついうっかり」  芹沢はまったく反省している様子がない。「アキさん」という言葉に、久住の下の名前が「明弘(あきひろ)」であることを思い出した。後輩たちも同じことを考えたのか、誰かが「元々のお知り合いなんですか?」と訊ねている。 「知り合いっていうか……僕、ここの学生だったんだよね。いろいろあって途中で転学したんだけど。久住先生は研究室の先輩で――」 「その話はいいでしょう。大体、森下研の教員がなぜ久住研の居室にいるんですか。さっさと戻ったらどうです?」  二人の会話を聞きながら、俺の中でばらばらだったパズルのピースがカチリとはまっていく。  おそらく芹沢は一回目の学奨に落ちるまで――つまり修士二年まではこの大学にいて、博士課程に上がるときに別の大学に移った。そのときの年齢を考えると、久住はすでに助教になっていた可能性が高い。そして久住が「学奨に落ちて大学を変えるやつもいる」と言っていたのは、芹沢のことだったのだろう。  途中で転学したせいだろうか、OB会名簿にも芹沢の名前はなかったはずだ。年に一度の懇親会にも今まで来ていなかった。久住がやたらと邪険にしているように見えることからも、転学のときになにか諍いがあったのかもしれないが―― 「森下研と久住研は合同でゼミをするらしいじゃないですか。これから長い付き合いになるんですから、久住研の学生さんたちにもきちんと挨拶しておくのが筋でしょう?」  終始笑顔を絶やさない芹沢からは、不穏な気配は一切感じられない。片や、久住はこめかみに青筋を立てている。 「ま、長い付き合いかどうかはわからないが」 「やだなあ、ようやく先生に追いついたんですから、僕はできる限り長ーくここに居るつもりですよ」  追いつく?  聞き覚えのある話に思わず首を傾げた。学会の懇親会を抜け出して芹沢と二人で飲んでいるときに、高梨の話をした記憶はある。それとは別に、芹沢もなにか言っていたような気がする。でもその後に高梨がホテルに来ていて、そこで俺たちは―― 「迅、大丈夫?」  一歩に覗きこまれて、慌てて顔を手で扇いだ。「大丈夫」と応えて視線を逸らした拍子に、なぜかこっちを向いていた高梨とばっちり目が合ってしまった。 「さあ、きみたちも研究に戻りなさい。卒論、修論は年内に必ず第一稿を出してもらうぞ!」  ぱんぱんと手を叩き、久住は踵を返した。芹沢も後を追うように部屋を出ていく。 「えっと……俺、実験室行ってくる」  聞かれたわけでもないのに小声で告げて、絡みつく視線からそそくさと逃げ出した。  センサ設置よし、ポジションよし、配線よし、電源をオンにして……計測、スタート。  あとは怪しい挙動をしないか目を離さずにいれば、基本的に放置しておけばいい。部品が吹っ飛ぶような危険なエラーは起きないように、あらかじめプログラムで制御してある。生物や医学系の実験と比べて本当に楽なものだ。 「さて、その間に前回のデータをまとめて――どぅあっ!」  ずしりと胴に重みがまとわりついた。肩口にさらりとした髪が流れ落ちる。嗅ぎ慣れたシャンプーの香りが鼻先をくすぐった。 「おい高梨! ここ大学だぞ!」  身をよじろうとしても、腰をがっちりとホールドされてしまっている。いやいやと駄々をこねる子どものように高梨は頭を振った。 「……なんであんな顔してたんですか」  くぐもった声が耳元に落ちる。どういう意味かわからず首を傾げると、ますます腕に力が込められた。 「芹沢先生が来ただけで顔を赤くしてたじゃないですか。やっぱり学会で芹沢先生と何かあったってことですか。この間も別れ際に頭撫でたし、今日だって真っ先に迅さんに声かけてたし……恥ずかしくなるようなこと、されたんじゃないですか?」 「はあああ?」    今度こそ力づくで腕を振り切った。こいつ、盛大に勘違いしてる。 「ほら! 今だってまた顔赤くなってるじゃないですか!」 「違うって! あれは、その……」  芹沢先生のせいなんかじゃなくて――いや、言えない。高梨との初セッ……を思い出したからだなんて、言えるはずがない!  ぷすぷすと火を噴きそうなほど顔が熱くなってくる。  学会が終わってすでに数日が経っている。次の学奨に向けて一刻も早く対策を取りたかった俺は、久住と今後の計画を練ったり、拒絶された国際会議論文を早急に直すための準備だったりと慌ただしく過ごしていた。家に帰っても高梨とほとんど顔を合わせることもなく、シャワーを浴びたら即爆睡……なんて状態だった。  つまり、俺と高梨はホテルでのアレ以来、なにもしていない。 「今忙しいのはわかってるんです。わかってますけど、俺以外の前でそんな顔しないでくださいよ……」  そっと伸ばされた手が頬に触れた。時間が空いてしまったせいか、こうして触れられるだけで心臓が爆発しそうだ。慣れ、なんてものは一生起きる気がしない。そして本人には言ったこともないが、高梨は今日も悔しくなるほど顔がいい。その綺麗な瞳の真剣な視線が俺の唇に降りてきて―― 「あれ、お邪魔しちゃったかな?」  ドアが開くのと俺が高梨を突き飛ばすのとは、ほぼ同時だった、はずだ。 「せ、芹沢先生……なにか御用ですか……?」  問いかける声が震えてしまう。芹沢は何事もなかったようにあたりをぐるりと見渡した。 「いやいや、僕がいたときと実験室も変わってるから、一応確認しておこうと思って見に来ただけなんだけどね」 「そうでしたか。それならここには大した設備もないですから、どうぞお帰りください」 「高梨!?」  優等生の高梨にしてはあり得ない態度に仰天する。しかし芹沢のほうはどこ吹く風という余裕の笑みを浮かべていた。 「まあまあ、恋人との逢瀬を邪魔されて怒りたい気持ちはわかるが、もう少し気をつけたほうがいいんじゃないかい? こんなところでイチャイチャしていたら誰かが入ってくることだってあるだろうに」 「こ、恋人!?」  思わず素っ頓狂な声を出して高梨と芹沢の顔を見比べてしまう。しかめっ面の高梨はますます目を鋭く細めた。 「先生、なに言ってるんですか……俺たちは別に……」  喉がからからに乾いてうまく声が出ない。芹沢は肩をすくめた。 「ん? でもこの前の電話で『迅さんは俺の恋人だ!』って思いきり言ってたよ? もちろん研究室内恋愛を止める気も、他の人に言いふらす気もないから安心してね」  ぱくぱくと口を動かすことしかできない俺を横目に、芹沢は邪魔者はそろそろ退散するとしようと言って背を向けた。ドアを開いたところで、なぜかもう一度くるりと振り返る。 「ああ、仲が良いのはいいことだけど、研究はおろそかにしないように。特に朝木くんには近々良い知らせをもってこれると思うから、無駄にならないようにがんばってね」  ひらりと振られた手が扉の向こう側へと消えていった。 「高梨……どういうことだ」  俺に睨みつけられた当の本人はスッと視線を逸らした。もう一度名前を呼ぶと、渋々といった風に口を開く。 「あの日、ホテルに着いて迅さんに電話をしたら知らない男が出たんです。しかもそいつが迅さんは泥酔しているから自分がホテルまで送るつもりだとか言い出すから、その人は俺の恋人だから一切触れるなって言ったんです。それだけですよ」 「な、なんで恋人とか、よりによって先生にそんな――」 「あの人は自分が教員とか、ここに赴任するとかそういうことは一切言わなかったんですよ! それに迅さんには前科があるから仕方ないじゃないですか!」 「前科?」  首をかしげると、高梨はふてくされたように唇を結んだ。 「……迅さんは酔っぱらうとキス魔になるから」  なんの話をしているのか理解した途端、またしても顔が熱くなった。ロボサーの飲み会のあと、酔っ払った俺を高梨が迎えにきてくれたときのことを言っているのだ。 「あんなことはもう起きないって」 「でも酔っぱらってるんだから絶対とは言い切れないじゃないですか! あんな……とろけた目でキスしないのか、なんて言われたら誰だって……」 「あれは誰にでもやるわけじゃない! あれは、おまえだったから……」  高梨の目がこれ以上ないほど丸くなる。あのときは高梨に不意打ちで告白されて、さらに長い間俺のことを好きでいたのかもしれないと知って、なんだか胸がぎゅっと掴まれるような堪らない気持ちになっていた。それが酔いのせいで溢れ出てしまったのだと今だからわかる。キスしたいとかヤリたいとか、ちょっと変な方向ではあったけれど。 「迅さん……」  素早く引き寄せられ、唇が重なる。まずい、なにか高梨のスイッチを押してしまったらしい。貪るような口づけに飲みこまれてしまう。いまだに俺のキスはへたくそだ。でもそんなことはおかまいなしに熱い舌が歯列をなぞっていく。 「ん、たかなし、んんんっ!」  また誰か来るかもしれない。そう言いたいのに息を継ぐ暇すら与えてくれない。そうこうしているうちに、いつも通り身体の内側からじんと熱が生まれてきて、震える指先で高梨の胸にしがみついて――  ビーッビーッビーッ  けたたましい音が俺の意識を引っぱたいた。音の元へと首を巡らせると、装置を動かしているプログラムにエラーが表示されていた。 「……デバッグ手伝いますか?」 「いや……大丈夫だ」  俺と高梨は同時に重いため息を吐いて、顔を見合わせてしまう。ぷっと先に噴き出したのは高梨のほうだった。 「俺、芹沢先生のことは気に食わないですけど、誰かに迅さんが俺の恋人だって知られてるっていうのがめちゃくちゃ嬉しいです」  絶句してしまう俺をよそに、高梨はこれ以上ないほど上機嫌な様子で実験室を出ていった。
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