第一章 3. 計画書は一枚で簡潔にまとめてみましょう

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第一章 3. 計画書は一枚で簡潔にまとめてみましょう

「あれっ、もう品切れかよ」  少し前に大量購入したはずのカップ麺が、いつの間にかすっかりなくなってしまっている。一緒に買っておいた菓子類もほとんどない。そういえば最近、学会の申し込みや定例ゼミのために、みんな缶詰め状態で作業をしていた。実験データが足りないとか、解析が終わらないとかで家にも帰らず、平日土日関係なく夜な夜な研究室に籠っていたのだ。コンビニに行くのも面倒なとき、研究室の商店システムほどありがたいものはない。  商店と言っても、修士二年の学生が代々自主的にまとめ買いをして、それを他の学生が買い取る簡単な仕組みだ。どの商品もだいたい百円で買えるようにすること、個人の儲けを考えないことが暗黙のルールだった。  ラインナップは買い出しする人間の好みで大きく様変わりする。俺はもっぱらコスパ重視のガッツリ系カップ麺ばかりを仕入れているが、意外と評判は悪くない。  戸棚を閉め、後ろに置いてある貯金箱を手にする。ずっしりと重く、振っても音が鳴らないくらい硬貨が詰まっていた。 「一歩、そろそろ買い出しに……って今日来てないのか」  怒涛の締切ウィークを終えたためか、居室はいつもよりもひと気がなかった。一歩も久しぶりに家でのんびりと過ごしているのだろう。学部生は授業があると言ってさっき出ていったばかりだ。 「紅茶はないのか……」  低いつぶやきが聞こえた方を振り返る。高梨が冷蔵庫を覗きこんでいた。 「紅茶って、無糖のやつか?」  確か前回の買い出しのときに安かったから仕入れたものだ。高梨は頷く。 「近くの自販機にないからよくここで買ってたんですけど」  眉を寄せているのは不機嫌というより疲れているようだった。ふと名案を思いついた。 「高梨、買い出し行こうぜ!」 「いや、俺忙しいんですけど……」 「息抜きだよ、息抜き。おまえが飲みたいもん買えばいいしさ。よし、行くぞ!」    大きなガラスの向こう側にはすっきりと晴れた青空が広がっていた。日中に外を歩いても汗をかくこともない、気持ちの良い天気だ。対照的に、目の前では高梨が居心地悪そうに身じろいでいる。 「迅さん……なんでまっすぐ帰らないんですか? さすがにこれ、恥ずかしいんですけど」  椅子の下には大量のカップ麺や菓子が入った大きなビニル袋が二つと、ペットボトルを詰めた段ボール箱が一つ置かれている。これだけ在庫があれば、短くても二週間くらいはもつはずだ。  大学のすぐ近くにある激安スーパーには、ちょっとした休憩スペースがあった。丸テーブルの上に先ほど買った飲み物を一つずつ置き、俺たちは向かい合って座っている。 「高梨に折り入って頼みがあるんだ」  俺は鞄の中から一枚の紙を取り出した。折れた部分を慎重に伸ばし、高梨のほうへと差し出す。高梨を誘い出したのは他でもなく、このためだった。 「計画書、ですか?」 「そうだ。この間出した研究計画書のフォーマットを使って作ってみた。北原さんと仲良くなるために、おまえの言う『計画』というものを立ててみたから一度見てほしいんだ」  頭の中で計画を練ってもうまくまとまらない。それならいっそ、計画書を作ってみよう。文字に起こせば自分でも見直しやすいし、今なにができて、なにができていないのかがすぐにわかる。まさに高梨の言う『研究と同じように考えてみる』を実践してみたのだ。 「……どうして俺が見ないといけないんですか?」  なぜか高梨の表情がすっと冷えたように見えた。 「えっ……いやだって、おまえが『計画を立てた方がいい』って言ったから作ったわけだし……」 「迅さんが彼女を作る手伝いをする理由なんて、俺には()()()()ないんですけど」  あれだけ訳知り顔でそそのかしてきたのだから、計画書を作れば当然見てもらえるものだと思っていた。ところが、買い出しに出る前よりももっとあからさまに不機嫌を露わにしていた。腕を組み、苛立たしげに膝をゆすっている。 「そ、そりゃそうだけどさ。武も一歩も結局俺と同レベルだし、おまえくらいしか頼れる人がいないんだよ。合コンのときだって、おまえはあの子たちとちゃんとしゃべれてたしさ……なあ、頼むよ」  ぱんっ、と大げさに両手を合わせた。この際、高梨が後輩だとかそんなことは些末な問題だ。もうすぐ二十四歳、そして彼女いない歴イコール年齢。ちっぽけなプライドなんて捨てなければ、このまま一生恋愛すらできない。  そっと視線だけを上げる。高梨はなにか思案しているような顔だった。ゼミのディスカッションのときだって、こんなに鋭い目つきになるだろうか。頭の中で目まぐるしく計算をしているのだろうが、冷静な表情からはどんなことを考えているのかはまったくわからない。 「……対価は?」 「はい?」 「だから、対価はなんです? まさか、忙しい俺の貴重な研究時間を奪っておいて何もないなんてことはないですよね?」  こいつには善意というものはないのか。  可哀想な先輩に、ちょっとくらい知恵を分けてやろうという善意は!  ちぎって捨てたプライドを思わずかき集めそうになったが、ぐっと堪える。 「お、おまえが必要なときに俺がいつでもはんだ付けしてやる!」 「それはただあなたの趣味でしょう」 「うっ……バイト先のクーポン券使い放題!」 「俺がカラオケ屋に行くと思います?」 「じゃ、じゃあ試験のアシスタントが必要なときはいつでも呼び出しに応じる!」  はあ、とこれ見よがしなため息をつき、高梨が立ち上がった。 「待てって!」  思わず目の前の手を掴んだ。振り払われると身構えたが、高梨は立ち止まった。少しかさついた、硬い節の感触を妙にはっきりと感じる。ぴくりと痙攣した指が俺の手のひらを弾いた。  顔を上げると、一瞬、見慣れない色がその瞳に浮かんだ。――これは、困惑? 「あ……悪い」  手を離すと、くたびれたようにすとんと腰を下ろした。 「……そんなに北原詩織のことが好きなんですか?」  高梨の目がまっすぐに俺を見ていた。何かを試しているような響き。 「す、好きだよ」  なに言ってるんだ、俺は?  あんぐりと口を開けそうになるのを必死にこらえる。  反射、そう反射だ。まるでおまえなんかに誰かを好きになることができるのかって聞かれたみたいだったから。  合コンに来ていた中で一番可愛いと思ったし、俺にも全く関心がないというわけじゃなさそうだった。それは好きっていうのか?  ただ、「好き」と言葉にしたことで急に現実味を帯びてきた感覚があった。俺は北原さんのことが「好き」だ。そうだ、きっとそうに違いない。  すっと細められた視線が突き刺さる。 「わかりましたよ。今はとりあえずその条件でいいです」  再び不機嫌な顔で、テーブルの上の紙を掴んだ。 「『彼女がほしい』……目的が大きすぎて不明瞭です。今抱えている問題は何か、そのうちのどれを解決しようとしているのか、解決するとどのような成果が得られるのかがわかっていないとプランは立てられません。なぜ彼女が欲しいのか、なぜ彼女ができないのか考えましたか?」 「『水族館に行く』……こんな妄想のデートを書いてどうするんですか。まずそこに至るまでにどのようなプロセスがあるのか、これでは何もわからない。もっと具体的にイメージをして記述するべきですし、実現可能な課題設定が必要です。期間を区切ってホールドポイントを用意して、それぞれに対して目的と計画が必要なんですよ。そこに向かってひとつずつこなしていけばおのずと最終ゴールにたどり着く。例えば――」 「ちょ、ちょっと待て。メモが追い付かない!」  鞄に入れていた研究ノートの後ろをちぎってメモを取っていた。とてもじゃないが情報量が多すぎる。 「メモもなにも、こんなの基本は研究計画書を書いたときの指導と同じですよ。学奨の申請しましたよね?」 「当たり前だろ。俺は学奨に通って修士の奨学金返済も、博士課程の学費も生活費もチャラにしないといけないんだから」  博士課程に進学する俺と高梨は、学術奨励会の特別研究員――通称・学奨に応募していた。特別研究員に採用されると、学生の身分で新卒相当の「奨励金」、実質の給与が支給される。その上、申請した研究テーマごとに毎年百万円前後の研究費までもらえるのだ。大学によっては修士課程でもらっていた奨学金の返還や博士課程の学費を免除されたりと、様々な特権が得られる。 「そういえば迅さん、今も()()清風寮に住んでいるんですよね。かなりバイトも入れているのに、そんなに奨学金もらってるんですか?」  ペンを持つ手が止まる。  無意識に、ぐっと腹に力を込めていた。  何気ないひと言だ。それなのに、鋭い刃のように深々と突き刺さる。 「親が学費も生活費も払う気がないんでね。学費は半額免除になってるけど、それでも年間三十万近くかかるしな。授業と研究の時間を考えると、バイトも今くらいが限界だし」  高梨が顔を上げたのがわかった。  高梨はたぶんバイトもしていない。奨学金のことなど何も知らないのかもしれない。着ているものも、シンプルだが質の良さそうなものばかりだ。同じ大学、同じ学部、同じ研究室にいても、こうも差があるものか。  俺が恥じることは何もないはずなのに、顔を上げられなかった。取り切れなかったメモを一心に書きつける。 「……受かりますよ、絶対に」  静かな、つぶやきのような声が降ってきた。俺も「そうだな」と口の中で応える。 「そろそろ帰りませんか」  高梨がそう言いながらビニル袋の中をあさっていた。「あった」そう言ってなにかを掴み出した。 「これは俺が奢りますよ」 「え、なんで?」  俺が奢るならまだしも、なぜ高梨が俺に奢るのだろう。訝しんでいると、手のひらにそれを押しつけられた。 「普段使わない脳を使って疲れたでしょうから」 「なんだとお?」  普段は聞いたことのないような陽気な笑い声を上げて高梨が歩き出した。俺は慌てて段ボール箱を抱えこみ、その上に手渡された包みを置く。 「あれっ、これ俺が一番好きなやつじゃん。なんで知ってんの?」 「さあ?」  肩をすくめた高梨の横で、チョコレートバーの包みが小さく跳ねた。
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