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第三章 3. 結果を求めるときこそ急がば回れ!
「肉! まさか居室で肉を焼くようになったとはな!」
「そうなんですよ先生、ケーキもあるんですよ! 来て良かったでしょー?」
「タケちゃん、おしゃべりしてる暇はあるの? 芹沢先生も論文チェックしなくていいんですか?」
すみません、としぼんだ声が揃う。先生まで叱りつけるなんて、さすが一歩だ。芹沢先生はそれでいいのかという気がしないでもないが。
自分の席から首を伸ばしてみる。久住研の学生居室は死屍累々としていた。卒論も修論も、久住への一次提出は年内厳守と言われている。学生たちは戦々恐々としていた。かつて提出をすっぽかした学生に久住が激怒して、本提出時に拒否されたとかされなかったとかいう噂があるが、久住なら本当にやりかねないからだ。
じゅわっと脂の弾ける音が響き、ゾンビたちがむくりむくりと身体を起こし始めた。
「四之宮さん……ご飯はいつ頃、できそうですか……」
「うーん、肉は焼き目をつけたあと一時間は置くよ。その間に他のメニューを作るつもりだけどね」
「一時間ですか……わかりました。その間もう少しがんばります……」
疲弊しているのは四年生だけではない。自分の修論がある修士二年生の代わりに、一年生が四年生の卒論の面倒を見てやっている。学部生ともなると、論理展開云々という以前に主語述語が行方不明だったり、図が妙に縦や横に引き延ばされていたり、フォントが途中で変わっていたりと、しょうもないミスが多発する。久住の目に入る前に体裁をチェックをして修正しておくのが先輩の仕事だった。そしていつまでもひょっこりと顔を出す誤字脱字にじりじりと精神を削られていく。
一歩はというと、今日の昼間に修論を久住に提出したらしい。昨日でもなく明日でもなく今日、十二月二十四日に提出した理由は、先生が確認をしている間ならクリスマスディナーを作れるから、というのだ。頭は良いが、やっぱりおかしな奴である。
「一歩、手伝えなくてごめん」
一応席から声をかけると、一歩は目を丸くして首を振った。
「ううん、迅は僕たちよりも大変な状況だから……それに高梨も手伝ってくれてるし」
「そうですよ。それより目の下のクマがひどいですけど、大丈夫ですか?」
「たぶん」
「たぶんって……」
高梨が眉根を寄せた。その両手には人参と包丁が握られている。今まで家では俺が料理担当だったが、最近俺がほとんど家にいないこともあって、時々は自分で料理をしているようだった。だいたい何をやらせても一定水準以上で器用にこなせてしまうから、早速一歩の助手が務まるようになったのだろう。当然修論も早々と提出したようだった。
片や俺の状況は芳しいとはいえなかった。昨日の夜から明け方までカラオケのバイトが入っていて、そのまま早朝から試験装置を使うために大学に来ていた。年明けすぐに締切が迫っているというのに、論文投稿のためのデータを取り切れていないのだ。一度の試験で取得するデータ量が膨大で、処理するだけでも時間がかかる。さらに得られた結果から論文にふさわしい発見を得るために考察を重ねないといけない。と、口で言うのは簡単だが、そうホイホイと新発見なんてものができていたら誰だってハカセになれる。
修論も修論で、今取り組んでいる論文をそのまま書き写せばいいというわけではないのが厄介だった。修論は教科書のように基本的なところから説明を書く必要があって、図や文章も膨大になる。これを同時進行でやりながら、二月の編入試験の準備もしていた。頭の中ですべてが取っ散らかってしまっているせいか、試験でも度々ミスが起きている。今もディスプレイに表示されたデータが使えないものだとわかってしまったせいで、気力がごっそり削ぎ落とされていた。
一歩が高梨になにか指示をするのが聞こえる。盗み見るように顔を上げると、真面目な顔で野菜を切っているのが見えた。集中すると唇が綺麗な一文字に結ばれるのを、俺は知っている。それが野菜に向けられているというのがなんだか可笑しかった。冬の嵐のようにすさんだ胸の内が、少しだけ凪いでほっこりと温かくなる。
高梨とまともに顔を合わせるのも久しぶりだ。研究室に来ても俺は実験室に籠りきりだし、家に帰れたとしてもバイトのせいで生活リズムが高梨と完全にずれていた。十二月の宴会シーズンは、カラオケ店にとってはかき入れ時だ。それなのに相変わらず明け方の閉店まで働けるスタッフは限られていて、ほぼ毎日のようにシフトが入ってしまっていた。
家で眠るごくわずかな時間は、ひどく静かだった。
「しかしクリスマスイブだというのに、みんな大変だねえ」
凝りをほぐすように肩を回して芹沢が言った。
「それを言うなら先生だって……俺たちのせいで本当にすみません」
「すみませんって、なにが?」
「ほら、先生イケメンだし当然恋人とかいますよねー? それなのに俺たちの面倒を見なきゃいけないし……」
武が上目遣いに窺っている。学生の注目を一身に集めておきながら、芹沢は軽く肩をすくめた。
「僕たち大学教員にとっては研究ときみたち学生が恋人みたいなもんだよ。家族がいたって過ごしている時間はきみたちとのほうが長いだろうしね」
そう言いながらローストビーフを口に放り込んで、ポテトサラダにも手を伸ばした。
ソファ前のテーブルには、しょうゆとガーリックの香りが効いたローストビーフ、炊飯器で作ったエビピラフ、カリカリに炒められたベーコンが入ったポテトサラダに、ダイス状に切られた野菜がたっぷり入ったコンソメスープが並んでいる。その横には武が持ってきた赤と白のワインがボトルで二本置かれていた。それを見た芹沢が、自分の学生の頃も論文の締切前にはこうしてガソリンを入れていたとニヤリと笑った。ケーキは冷蔵庫に入っているよと一歩が声をかける。学生たちも各々料理を皿に取り、束の間の休息を味わっていた。
「迅さん、食べないんですか?」
「いや、うん……」
隣で耳打ちするように高梨が声をかけてくる。ガーリックソースやシーフードの香りが鼻をくすぐり、食欲をそそる……はずだった。鼻も目も調子がおかしいのか、目の前の色とりどりの料理が平べったい絵のように見えた。皿を手にしているものの、胃がぴくりとも動かない。よく考えれば、これが今日最初の食事のはずだ。いきなり固形物を入れようとしても身体が受け付けないのかもしれない。
「ちょっと飲み物取ってくる」
皿を置いて立ち上がった瞬間、視界がぐらりと傾いた。
「迅さん?」
「大丈夫、ちょっとふらついただけだ」
人の気配を避けて二歩、三歩と足を踏み出す。
「迅!」「朝木くん!?」
突然重力を失ったように膝から力が抜ける。焦るような声が遠く響き、冷たく硬い感触が頬に触れた。
*
「睡眠不足、それから脱水症気味だったそうです。ひと言で言えば過労ですね」
高梨が険しい顔で俺の顔を覗きこんでいる。右手を動かすと細長い管が視界の端で揺れた。ここは病院で、先ほどまで一歩と武、芹沢も付き添ってくれていたという。
「点滴が終わって起き上がれそうだったら一度診てもらった後で帰っても良いとのことです。でもしばらくは家で安静にしないといけませんよ」
「しばらくって、いつまで……」
「一週間くらいは様子を見るべきじゃないですか」
「そ……んな時間あるわけないだろっ」
一週間も経てば今年は終わってしまう。修論も論文も提出を終えていないのに休めるはずがない。
「俺のパソコンは?」
あたりを見渡しても、俺の荷物らしいものはなかった。研究室にすべて置きっぱなしにしてきてしまったらしい。身体を起こそうとする俺の肩を高梨が押し返した。
「迅さん、一度落ち着いてしっかり休んだほうがいいです。本当に体調を崩してしまったら学奨も論文もなにも――」
「だからって何もしないわけにはいかないじゃないか。このタイミングで論文も出さないと、次の学奨もきっと……不採用だ」
自分で発した単語に背筋が震えた。編入試験にだって必ずしも合格するとは限らない。また一年、先の見えない日々を過ごすことになるのはごめんだ。
粘ついた唾を呑みこむ。不安げに揺れる高梨の目を真正面から見据えた。
「頼む。俺は今無理をしてでもやり遂げなきゃいけないときなんだ。このまま悔いが残るようなことはしたくない」
「でも……」
「だから、高梨に頼みがある」
反論しようと尖りかけていた唇がぴたりと止まった。
『ひとりで抱え込みがちだったきみは、以前よりも成長したと言えるんじゃないかな?』
芹沢にもそう言ってもらえたのに、また同じ失敗を繰り返してしまった。
これまで研究は全部ひとりでやろうと思っていた。やらなきゃいけないと思っていた。後輩に頼ったりなんかできない、むしろ自分だけで完璧にこなすことこそが先輩として手本になると思い込んでいた。
大きな自惚れだ。俺なんか、まだまだ力不足だった。
自覚が、ようやく心を固めた。今さら、と言われるのは怖い。でも、もし力を借りるなら――高梨がいい。高梨じゃなきゃだめだ。
「少しだけ……ほんの少しだけ、協力してくれないか。実験のデータ処理だけでいいんだ。おまえ自身も修論があるし、三月の国際会議の発表準備もあるのはわかってる。でも一番信頼できるのがおまえなんだ。だから手伝ってもらえたらって、それで……」
「良いに決まってるじゃないですか」
つぶやきが消える前に抱きしめられていた。肩口に長いため息が触れる。
「やっと頼ってくれた……」
「う、今までごめん」
「いいんです。このために俺はがんばってきたんですから」
高梨が口を出さないようにしながらも、ずっと心配をしてくれているのはわかっていた。久しぶりにきらきらした笑顔をぶつけられると、罪悪感よりも単純にどぎまぎしてしまう。
「でもさ、忙しいときなのに本当に大丈夫なのか?」
「俺を誰だと思ってるんですか?」
薄く目を細めて不敵な笑みを浮かべた。そうだ、こいつは本来自信満々なタイプだった。
「はいはい、学奨採用者で修士を一年で早期修了する超エリート様ですよ」
「いいえ、迅さんの恋人です」
「お、おまえなあ……」
呆れた声にも高梨の上機嫌はぴくりともしない。俺の両頬を大きな手で包み、端正な顔をゆっくりと近づけてくる。
久しぶりにキス、されるかも……
速くなる鼓動を感じながら、目を閉じ――ようとしたところで高梨が目を輝かせて声を張った。
「さあ、そうと決まったら作戦会議をしましょう!」
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