第一章 4. 文献調査は入念に

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第一章 4. 文献調査は入念に

 ざわざわと騒がしいのは、人だかりのせいか、それとも夕方からやまない土砂降り雨のせいか。  共用棟の大浴場を出て玄関へ向かう途中、同じ棟に住む後輩から声をかけられた。 「朝木さん、通知見ました?」  頭にかけていたタオルを首から下げ、手招きされるままに人だかりへ向かう。古ぼけた緑色の掲示板に一枚の紙が貼りだされていた。 『清風寮 一○一~一○三号棟 建て替え工事開始日のお知らせ』 「遂に日にちが決まったみたいです。七月中旬から。まったくひどい話ですよ、絶対に耐震基準を満たしていなかっただけなのに、ろくな説明もなく俺たちを追い出すなんて」  大学側が突然建て替えを言い渡したのは三ヶ月ほど前のことだ。俺たち寮生は半年前に発生した地震のせいだとにらんでいる。震源地が近かったものの、それほど規模の大きなものではなかったはずだが、外壁も内壁にも大きな亀裂がいくつも走り、明らかに損傷していた。そのまま住んでいて大丈夫なのかと心配なくらいだが、今のところは問題ないらしい。今のところ、とはなんとも不穏な響きではある。  他の棟の空き部屋に住むための抽選が行われたものの、もともと空室の数もそれほど多くなく、抽選であぶれた者はわずかばかりの補助金を手に退去しなければならなくなった。俺も、目の前で憤慨している後輩も。 「朝木さんはもう部屋決まりました?」 「いや、日にちが決まってからと思ってたからまだだけど。おまえは?」 「俺はもう諦めて決めちゃいました。もちろんギリギリまでいたほうが得なのはわかってますけど、みんな安くて良い部屋を狙ってるだろうから早くしなきゃと思って」 「え、もうそんなに埋まってるの?」 「俺が見た不動産屋では、大学周辺の安いところは大体埋まってましたね……そもそも時期が悪いですし、ネットも使えて月々一万三千円なんて物件は学生寮以外にないですよ。それが倍以上になるんですから……これからどうしたらいいんですかね、俺たち」  換気扇がやたらと唸り声を上げている。おまけになにやら焦げ臭い。俺の前にこの調理場を使った誰かが、コンロに何か落としたまま部屋に戻ったのだろう。寮の各棟にある共同調理場には研究室に負けず劣らず誰かが置きっぱなしにしている各種調理器具が並んでいるが、扱いが雑なせいで油や得体の知れないものがこびりついたままになっている物も多い。男子寮なんてそんなもんだ。  たまに留学生たちがパーティーをしていて、嗅いだことのないエスニックな臭いを棟中に発散させていることもある。偶然調理場に足を踏み入れてしまったために、陽気な外国人に強い酒を飲まされて翌朝酷い状態になったこともあった。それも学生寮ならではの良い思い出だ。  小鍋の中で泡がふつふつと浮かび上がってきた。まとめ買いしておいた安い袋麺を取り出し、スープと火薬を溶いた湯の中に沈める。卵を割って入れたら出来上がり。麺は固め、卵は半熟が好みだから調理時間も短くて済む。 「振込日まであと三日か……うあっ熱っ!」  箸から白身がとろりと滑り落ち、思いきり汁が跳ねた。バイト代と奨学金が入ったら、卵以外にもちょっと豪華な具を入れてやろうと目論んでいる。  今月はひと際金がなかった。原因は明確――俺が初めて行った、あの合コンだ。  ヴヴヴッ――  ポケットの中から振動が伝わってきた。連絡といえば、今は研究室のメールが転送されてくるとか、バイト先の人からのシフト連絡くらいしか来ないはず。 「ん……んんんー!」  すすった汁が不意打ちで喉を直撃した。激しく咳き込んだせいで喉が焼けるように痛い。 「きたっ……きたは……っ!」 「ナニが来たのー?」  洗濯籠を抱えた留学生が入り口から浅黒い顔を覗かせていた。箸を持ったままじたばたと悶えている俺を不思議そうな目で見ている。 「なっ、なんでもない!」  怪訝な顔のまま首を傾げ、男はビーチサンダルをぺたんぺたんとリズミカルに鳴らしながら廊下を歩いていく。その後ろ姿が消えたのをしっかりと確認し、俺は椅子に座り直してもう一度画面を見つめた。 『お返事遅くなってごめんなさい。こちらこそ、先日はありがとうございました。私も朝木さんともう少しお話したかったなって思っていたので嬉しいです。ご飯に行くとしたら、いつが都合が良さそうですか?』  少し離れた位置から撮られた北原詩織の横顔が、丸いアイコンとして切り取られている。 「北原さんから返事が来た……!」  高梨から「とりあえず今からでも合コンに来てくれたお礼を言って、ついでに飯にでも誘ったらどうですか」とぞんざいに提案されたのは三日ほど前、渾身の恋愛計画書にダメ出しをされた翌日のことだ。それから丸一日、研究に手もつかず悩みに悩んでメッセージを送ったのだが、返事が来る気配もなくへこんでいたのだ。  残っていた麺を一気にすする。もったいないがスープはこの際捨ててしまえ。小鍋を手早く洗い、水を滴らせたまま部屋に駆け戻った。    この間はまんまと乗せられるようにして計画書を作ったわけだが、計画自体はともかく、俺には圧倒的に基本知識が足りないということを自覚することができた。悔しいが、その点に関してだけは高梨に感謝してやってもいいだろう。  では次に何をすればいいのか。『研究と同じように考えればいい』という高梨の言葉を思い出し、導きだした答え。  それが、文献調査だ。  文献調査――先人たちの汗と涙の結晶、その英知が詰まった資料を読み解くことで、足りない知識を補い、新たな発見を得る。ときにその内容に疑問を抱き、解決するために自ら試行錯誤をすることで全く異なる解が出てくることがある。それこそが新しい研究が芽生える瞬間だったりもするわけだが、今回はしっかり恋が芽生えてくれないと困る。それどころか大輪の花が咲いてもらわなければ。 「だが今の俺には……これがあるっ……!」  机の上に置いていた本を両手で抱え上げた。表紙に整然と並ぶ白い文字を眺める。 『理系男子のための恋愛マニュアル 〜初級編〜』  マニュアルと銘打っているだけあって、それなりの厚みがあった。しかも男子向けだからか、他の恋愛指南本のように表紙がピンクやハートで溢れているわけでもなく、薄いブルーのシンプルな装丁だ。インターネットで良さそうな本を検索しまくり、『理系男子のための』という文言に惹かれて購入ボタンを押した。税抜き千五百円、もちろん万年貧乏の俺にとっては想定外の出費だ。届いたのはちょうど昨日。まさに絶好のタイミング! 「あった!」  目次の一行を指でなぞった。 『第二章 対女子コミュニケーション術 第一節 メール等を用いた連絡について』 「えーっと、なになに……『理系男子は常に効率を求めようとするという特徴があります。そのため、情報伝達においても結論のみ、あるいは必要最低限の情報のみを箇条書きのように過度に簡潔な状態で連絡するといった発想に至る場合が多いのです。しかし、簡潔すぎるメッセージは送信者の人柄や感情も排除されることになってしまいます。よって、送信者が相手に無関心であると受け取られる可能性が高くなるでしょう』――むむむっ」  まさかこれは俺の本か?  思わず表紙をもう一度見直した。  心当たりがありすぎる。さっきも詩織からの『いつが都合が良いか』という問いに対して、「現状空いている日時を二週間分、エクセルでリスト化して送ったほうがいいか」と思っていたくらいだ。メッセージの目的が日程調整なのだから、そのほうがスムーズに話が進むんじゃないかと考えていたが、それではダメということらしい。 「それで、どうしたらいいって? 『相手のメッセージに隠された感情を推測し、必ずそれに応えることが重要です。たとえば、相談をしたい素振りであれば巧妙に悩みを引き出し、嬉しいことがあったようであれば喜びを盛り上げる言葉を返す。さらに、自らの好意を表す言葉を加える必要があります。ここで注意したいのは、関係が進んでいない段階で好意の表現を強くしすぎた場合、相手が嫌悪感を抱く可能性があるということです』……いや、難しくね?」  さすがの俺でも、面と向かって話しているのなら相手の表情や声音である程度わかると思う。それが文字だけになったら途端に読み取りにくくなるのが普通じゃないのか? その上、自分の感情――ましてや好意を文字に乗せるなんて俺には無理だ。しかも表現が強いだの弱いだの、そんな微調整をこの俺にできるはずがない。  工学部に入学して以来、ひたすらレポートや論文の書き方の訓練を受けてきた。とにかく簡潔に、理路整然と。自分の考えを並べるが、感情的になってはならない。何度もレポートを突き返されて単位を落としそうになったり、真っ赤になった論文を直すために徹夜することも少なくはなかった。  そうして苦労して身に着けた――というより身に染みついた技術を全否定されるなんて、人生辛すぎる。 「一応ネットも調べてみるか……『恋愛 メール』それから……『テクニック』?」  恋愛の猛者たちが各々の技術を惜しげもなく披露している、そんなサイトがごろごろと出てきた。人にアドバイスできるほど恋愛経験が豊富だなんて羨ましい話だ。だが一方で、本といいサイトといい、これほどたくさん存在しているということは、その分需要も大きいということだ。つまり、俺のように迷える子羊が世界にわんさかいると思えば、多少は心が慰められる。  とはいえ、あまりにも情報が多い。しかも人によって言っていることが違う。『男は媚びを売るな! クールにいけ!』と言うものもあれば、『ひたすら褒めまって好感度を上げろ!』と真逆の意見もある。  これでは正解がない。だが正解がないというのは確かに研究に似ているような気がした。そう考えれば好奇心がくすぐられないこともないが、今はそんなことを言っている場合じゃない。  前のめりで画面を見続けたせいか、目がかすんできた。いつも以上に肩こりもひどい。大きく伸びをして首を回すと、ごきごきと聞いたこともない音が響いた。 『普段使わない脳を使って疲れたでしょうから』  高梨の声を思い出した。思わず苦笑してしまう。  皮肉っぽくはあるが、あれはあれで俺を気遣ってくれたんだろう。いつも仏頂面で優等生の鑑みたいに研究ばかりしているが、今まで他の人間の世話を焼くようなところも見たことがなかった。生意気だが指摘は説得力があるし、ぶつくさいいながらも根気強く付き合ってくれる。案外良いヤツじゃないかと思い始めてきた。 「しょうがない……明日にでも高梨に聞くかあ」  ベッドに倒れこんだ途端、俺は眠りに落ちていた。
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