第一章 5. 必要なデータを精査しましょう

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第一章 5. 必要なデータを精査しましょう

 就活に真っ黒なスーツというのは、もはや時代遅れらしい。 「タケちゃん、ネクタイ曲がってるよ」 「おー……」  端末をいじり続けている武に構わず、一歩が曲がったネクタイを直している。武は紺地に細いストライプが入ったスーツをまとい、珍しく頭をかっちりと固めていた。まるで技術職ではなく営業職に採用されたみたいだ。一歩は薄いグレーに紺色のネクタイを合わせていて、優しい顔立ちとよく似合っている。 「でもさ、もう内定もらってるんだろ? 最終面接ってのは何するんだ?」  俺は素朴な疑問を口にした。就活といえば、学部生のときに大学開催の会社説明会を冷やかしに行った程度だ。今年は完全にスルーしていたし、いまだに仕組みをわかっていない。 「正確に言えば、僕たちはまだ内々定っていう状態なんだ」  一歩はわずかに顎を引いて武のネクタイを確認しながら言った。 「技術職はだいたい所属を希望する部署に直接面接を受けに行って、内々に配属を約束してもらうんだよね。そうすることで学生側は仕事の内容をある程度選べるし、企業側も欲しい技術をもった人材を直接、かつ早期に確保することができる。でも今は全部の企業がヨーイドンで採用活動をするって決まりになっているから、本当に内定を決める最終面接だけは一斉に開始するんだ」 「俺んところは本社のお偉いさんと面談するだけって聞いてるけどな。俺も一歩も学校推薦取ってるし、まあ意思確認みたいなもんだろ」 「そうだねえ」  ずいぶんのんびりとした二人の様子を見ていると、本当に大したことではないみたいだ。 「これが将来を確約された人間の余裕ってことか。くそう、ちょっと羨ましいな」 「なに言ってるんだよ、迅も来月入試でしょ? 合格すれば少しは落ち着くんじゃない?」  そうして春がくれば、一歩と武はこの場所から新しい世界に旅立っていく。俺は今と同じ場所で変わらない日々を過ごす。入学式で知り合って早六年だ。寂しくないかといえば、嘘になる。 「げ、雨降ってる」  武が窓の外を覗きこんで言った。 「もうすぐ梅雨入りだね」  小さな雫が窓に散っていく。次々に流れる水の跡を三人で黙ったまま見つめる。季節がまたひとつ変わろうとしていた。 「朝木さん、ちょっといいですかあああ」 「おう白河、どうした?」  一歩たちが出発した途端、半べその状態で声をかけてきたのは学部四年の白河だ。 「久住先生の課題で出されたシミュレーションをしようと思ったんですけど、プログラム組んでも思った動きにならなくて……」 「どれどれ?」  卒研生として久住研に配属されて二ヶ月、白河たち四年生は研究室での基礎的な講習の総仕上げに入っていた。ひと通り教わったとはいえ、まだまだわからないことが多いはずだ。 「あー……この関数が間違ってるな。これだと永遠にループしてしまうだろ。条件を指定したい場合はこっちの関数を使ってみたらどうだ?」  ネットで検索させて、使い方を見せてみる。正直、俺がぱぱっと修正してやったほうが早いが、それだと白河自身はいつまでたっても覚えられない。辛抱強く教えてやるのが大事だ。 「このプログラム、実機試験にも応用するだろ? それならこのあたりをもう少し整理しておいたほうがあとで楽だぞ。ファイルを分けて書いておくのも手だな」 「ははあ、なるほど……!」  プログラムのメモ欄に懸命に書きつけている姿を見ると、なんだか懐かしい気持ちになる。俺も新しいソフトや機材を使うときは先輩にくっついて世話してもらっていた。だが仲の良かった先輩たちはあっという間に卒業して、博士課程の先輩もこの春に無事企業の研究所に就職してしまった。今や俺たち修士二年が一番上の代だ。 「ありがとうございました! ここからは自分でやってみます!」 「そうだな。またわかんないことあったら遠慮なく聞けよ」 「面倒見がいいですね」 「おわっ!」  自席に座ろうとした俺の後頭部に低く響く声が直撃した。 「危ない!」  足首に椅子の脚が引っかかる感覚のあと、ずるりと身体が傾いた。  落ちる――そう思った身体は予想に反してぴたりと止まった。 「だ、大丈夫ですか?」  二の腕を両側からがっしりと掴まれていた。背中に高梨の体温を感じる。驚いて声も出ないまま後ろを振り返ると、ぱちりと視線が合った。俺と同じくらい、いやそれ以上驚いたように目を見開いている。 「高梨?」 「あ……すみません」  まるで壊れ物を置くようにそっと手が離れていった。あのとき――俺が高梨の手を掴んだときと同じような戸惑いの表情のまま黙っている。心なしか頬が赤いような気がするが、慌てたからだろうか。 「……助かったよ。もしかして授業終わったところか?」  うなずくのを確認して冷蔵庫を開けた。高梨が前に飲んでいたのは確かこれだ。紅茶のペットボトルを手に取り、放り投げる。 「よーし休憩だ、休憩!」  研究棟と教室棟の中ほどには学生が自由に使える休憩所がある。大きな四角いテーブルにベンチが並び、脇にはジュースやパンを売っている自動販売機があった。もう次の授業が始まったのか、運よく他の学生の姿はない。 「これって、迅さんが休憩したかっただけですよね?」 「まあな」  呆れたように息を吐くが、席を立とうとはしない。いただきます、とつぶやいてボトルの蓋を開けた。こくりこくり、と立派な喉仏が上下する。 「迅さんって後輩からも結構頼られていますよね」 「ん、そうかあ?」  いちごミルクのボトルを取り出すと高梨があからさまに顔をしかめた。そういえばこいつが甘いものを食っているところを見たことがない気がする。 「まあサークルでも結構教えることが多かったからな。俺は工業高校出身だから座学は周りのやつらよりも全然だめだけど、手を動かすのだけは得意だったし」 「工業高校から進学って、かなり珍しいんじゃないですか?」  薄茶色の瞳が興味深げに見開かれた。俺の話に食いついてくるなんて珍しい。 「そうだよ、俺が開校以来初……って言いたいところだけど、三年ほど前にも一人いたらしい。その生徒を受け持っていた先生が偶然俺の担任で、いろいろ知っていたおかげでこうして大学に入ることができたんだ。もちろん一般入試じゃなくてAO入試だけどな」 「AO入試は面接や小論文の試験ですよね」顎に手を当てて視線を宙にさまよわせる。 「……なんで後輩の指導や面接はうまくできるのに、女子の前だとうまく話せないんですかね?」 「おいコラ」  いきなりブーメランを飛ばしやがった。さっきまで様子が変な気がしたが、いつもの調子が戻ってきたみたいだ。 「先輩をからかったんだ。それ相応の代償を払ってもらわないとな」 「代償?」 「そう。この間、おまえが言ったとおり北原さんに連絡をしたんだけどさ――」  ご飯に誘ってOKが出たところまではいいが、日程調整をしなければならなかった。とりあえず自力でバイトやゼミと被らない日程を送りはしたものの、その返事はまだ来ていない。だが、返事が来てから慌てたのでは遅いと、俺ですらいい加減に学習していた。 「それで、たぶんご飯に行けそうなんだけど……どっか良い店知らないか?」 「良い店って……どんな店ですか。ジャンルは?」 「じゃ、ジャンル?」 「和、洋、中。肉、魚、野菜。レストラン、居酒屋、カフェ。予算や、昼か夜かでもだいぶ話は変わってきますけど。あとは場所ですね」 「確かに……」  店を決めなければ、ということだけで頭がいっぱいで、どんな店かということまで考えていなかった。 「まあ、いくら出会いが夜の合コンだったとしても、最初はランチくらいがいいでしょうね。そのほうが失敗しても懐が痛まないですし」 「失敗してもって、おまえなあ……」  デート代をケチるなんて男として最低だ。建前はそう言っても、実際は予算が少ないのだから懐具合は常に気にしないといけない。 「そもそも好みとか嫌いな食べ物とか聞いてないんですか?」 「聞いてない……それどころかスケジュールを提出しただけだ」 「ゼミのスケジュールみたいに言わないでくださいよ」  思わずといったふうに高梨が笑った。  合コン以来、俺がなんだかんだと高梨に話しかけるようになったせいか、今まで俺が一方的に感じていたよそよそしさは嘘のようになくなっている。  特に変わったのは高梨の表情だ。今みたいに、少しだけ肩の力を抜いた、自然体のような笑顔を時折見せるようになった。研究室にいるときには常にまとっている、どこか追い詰められているような、ひりひりとした空気が今は消えている。  なにせ顔がいいのだから、笑顔だって際立つ。もっとこんなふうにやわらかく笑ったらいいのに――なんて思ったのも束の間、ほんの一瞬でいつもの皮肉な笑みに切り替わる。 「店を決める前にリサーチくらいするもんですよ。計画書にも『相手を知る』って項目を作ったじゃないですか」 「そう簡単に言ってくれるなよ……」深いため息を止められない。 「メッセージ一個送るのだって相当苦労してるんだ。いざご飯に行っても、おまえの言うとおりうまく会話できる気がしないよ」  高梨はテーブルに肘をつき、手に顎をのせて俺を見ていた。 「な……なんだよ」 「シミュレーションしませんか?」 「どういう意味だ?」 「デートのシミュレーションですよ」高梨は珍しく楽しげに微笑んだ。 「まあ今回は飯に行くだけですが。実験をする前にあらかじめシミュレーションをして、課題を見つけたり結果を予測したりするのが研究の定石でしょう。デートも同じことだと思うんですよね」  高梨は大真面目な様子で俺をまっすぐに見据えた。思わず俺も高梨の顔をまじまじと見てしまう。  悔しいことに、何度見たって顔がいい。可愛いは正義だが、イケメンもまた然りだ。  目はアーモンドの形、鼻はまっすぐに筋が通っていて、血色のいい唇は薄すぎず厚すぎず絶妙なバランスだ。シミひとつない白い肌に、茶色の髪がさらりとかかっている。神さまというのは本当に不公平だ。恵まれた環境に育って、顔もよくて頭もいいときている。こんなふうにデートに誘われたら、どんな人間でも喜んでついていくだろう。  っていや、俺がデートに誘われたわけじゃないし。 「迅さんは好き嫌いないですよね?」 「ないよ……って、まさか本当に行くのか?」 「今のままじゃ不安なんですよね? 俺はシミュレーション、必要だと思いますけど」  どうやらそのまま話を進めるつもりらしい。余裕のある表情は生意気だが、高梨の言うことは正しいと思ってしまう。 「わかったよ。じゃあ一歩と武も誘って――」 「なに言ってるんですか」形のいい眉が思いきり寄せられる。 「友だちをぞろぞろ引き連れてデートなんか行かないでしょう。それに四之宮さんたちがいたらいつもと変わらないじゃないですか」 「お、おう……」予想外の早口に思わず気圧されてしまった。 「それで、どうするつもりなんだ?」  高梨はやたら機嫌よく笑みを浮かべた。 「全部俺が考えますから。任せてください」
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